平穏を祈る(2024.3.1)

異常な気候変動にも対応能力が求められる。

 早いものでもう3月を迎えました。三寒四温とよく言われ、正月からひな祭りを迎えるころの季節感がこれまでの様子でしたが、その三寒は雪を呼ぶ木枯らしの日々、それが急に夏日を思わせられるような四温と、気温変動の激しい繰り返しで、地球環境の異常さが切実さを帯びてきているような感じがしてなりませんね。

 正月早々に発生した「能登半島地震」も2か月を過ぎようとするのに、報道によっても復興の兆しがまだまだ見えてこない状況が残念でなりません。

 四国の我が地方でも南海・東南海地震が心配されているのだが、2月に震度3・4規模の地震が何度か発生しており、大災害への心構えと対応策に気を抜かずに取り組んでおくことが必要です。もやもやしていますが、異常な気候変動が重なり、被害も想定を超えることがあるとの覚悟と準備が必要でしょう。

政界の裏金疑惑も国民が納得できる説明が求められる。うやむやしては、政治家への国民の不信感は取り戻せないだろう。

 昨年末に取り上げられた、自民党派閥の政治資金パーティーの使途決済の報告が選管へも届け出されず、使途不明の裏金化となっているとの疑惑が指摘された。また、派閥の解散で一層責任の所在が不明確となり、自民党の一部関係者により国民に政治不信を呼び起こしている。

 内外共に混迷の政治状況が続く中、世界の国々との信頼に基づく日本の行方が羅針盤を失ったようなことになることが最も危惧される。国民を難民にしてはならない。

 3月は若者にとっては卒業、更に進学や就職と、ステップが変わる時期であり、最も精神的に不安定な時期でもある。将来の社会を担い、国を担う若者の皆さんに希望ある未来を拓く社会を造ることが、大人であり政治の責任でもある。

 国においても地方においても、厳しい現実を踏まえながらも新しい未来への希望を切り開くためのステップを見込んでの、当初予算も組まれていることだが、成果につながる実践活動が国民一丸となって取り組まれることを願いたい。  

この度、「西条市長」「西条市スポーツ協会 会長」連名で、私に『スポーツ振興功労賞』を戴きました。有難うございました。

 西条市内でサッカースクールを開設するなど、子供たちがスポーツに取り組める場づくりに取り組み「西条市スポーツ少年団の本部長」として48年間務めさせていただきました。皆さんのご理解とご協力に心から感謝しています。これからも生涯のライフワークとして青少年の活動支援を続けます。
多くの思い出も紡いでいることにも感謝です。

日本スポーツ少年団(益子直美 本部長)

 尚、西条市スポーツ少年団本部長は後任が得られたので退任いたしましたが、愛媛県スポーツ少年団本部長は引き続き就任いたしており、現在四国ブロックを代表して日本スポーツ少年団(益子直美本部長)の常任委員を務めています。

 本年12月には愛媛県で全国スポーツ少年団「バレーボール交流大会」【女子チームは全国の各県から1チームの合計48チーム、男子は全国のブロック代表の10チーム】を愛媛で開催する大役も引き受けています。心身ともに健やかで、責任感を持つ子供たちの育成に生涯のライフワークと自認して頑張っています。 

仏教は大人になる宗教 -釈尊の涅槃会に思う-

月刊『致知」2024.3月号【巻頭の言葉】より引用 
愛知専門尼僧堂堂頭 青山俊董

~ 諸仏は是れ大人なり ~

「親方はゆきだおれ、法孫のわれわれが ぜいたくをしてはあいすまん」
と言って、八十余年の生涯を「宿なし興道」で通された沢木興道老師と、 その志をひたむきに受け継がれて生きられた内山興正老師の生きざま。

 釈尊はその生涯を、一歩一歩人々の中へ足を運ばれ、その悲しみに耳を傾け、法を説き、旅の途上、クシナガラの沙羅双樹の林の中で、八十年の生涯を終えられた。それを沢木老師は「親方はゆきだおれ」とおっしゃったのである。

 二月(新暦三月)、釈尊の涅槃会を迎えるたびに思い起こし、わが身の怠惰を省みることである。釈尊最期の遺言である『遺教経』の骨子は「八大人覚」。道元禅師もご生涯の最期にこの「八大人覚」を説示され、私が生涯の師と仰ぐ沢木老師の最期の提唱が「八大人覚」であった。

「諸仏は是れ大人なり。大人の覚知する所、ゆえに八大人覚と称ず」
道元禅師の残された 『正法眼蔵 八大人覚』はこの一句から始まる。仏教は大人になる宗教といわれている。如来の徳をたたえる十号の一つに「調御丈夫」というのがある。ああしたい、こうしたいというわがままな自我の思いをのさばらせることしかできないのは、たとえ八十歳になろうと精神的には子供。 わがままな私をあるべきように調御できる、手綱さばきができる人を、大人と呼ぶというのである。「八大人覚」とは、八つの大人として自覚すべきことをいうので、「小欲」 「知足」「楽寂静」「勤精進」「不忘念」「修禅定」「修智恵」「不戯論」の八つであるが、ここでは最後の「不戯論」を参究することにとどめる。

~ 効能書きでは 病気は治せない ~

 沢木老師はこの第八「不戯論」のところで、「この頃の仏法は傍観者の仏法であり、観念の遊戯になってしまっている」「いくら仏教の効能書きを読んでも、効能書きでは病気は治らん」とおっしゃり、「立ち見席の仏法」「言づけ仏法」という言い方もされた。私はよく楽譜と生演奏にたとえる。まちがいのない生演奏をするために楽譜の学びはせねばならない。

 たった一度のやりなおしのできない私の人生の今ここを少しでも悔いのないように生演奏するにはどうしたらよいか。それを学ぶのが楽譜の学びである。 楽譜だけの学びで、人生の今ここでの生き方として実践しないのを戯論という。

 楽譜の学び、言葉の学びでいる間は、その深遠な教えに酔っぱらっていることができるが、私の人生の今ここに生かそうとすると、一句も実践できない自分に気づく。
「深まるほどに足りない自分に気づく」
とおっしゃった沢木老師の自己凝視の姿こそ、まさに不戯論といえよう。

 楽譜の学び、言葉の学びでいる間は、その深遠な教えに酔っぱらっていることができるが、私の人生の今ここに生かそうとすると、一句も実践できない自分に気づく。