能登半島地震復興を応援しましょう!(2024.2.1)

令和6年能登半島地震関連でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りするとともに、被災者され心も痛まれている皆様に、心よりお見舞い申し上げます。冬季の寒空の中、被災の復旧作業もはかどらない状況で、本当に皆様お疲れのことと思います。どうか頑張ってください。私たちは、今は後方支援として、義援金を集め、課題解決の一助の支援に努めましょう。関係諸団体と連携して協力しましょう。また、この災害での諸対策で浮き彫りになっている課題を、教訓にこれからの災害対応や、対策に生かすよう平常から心がけましょう。

 2024年1月新年の幕開けは、辰年で昇竜の運気を期待しましょう・・・。などと新しい年の始まりの挨拶を神社の歳旦祭で交わし、おせち料理などを家族でいただいていたところでした。

 しかし、夕刻からテレビでは「能登半島沖で地震が発生、非難してください。命を守る行動をしてください。」と、警告アナウンスや石川県輪島市を中心に能登半島の惨状が伝えられ、身も心も冷えあがってしまいましたね。その後被災状況の報道を見るにつけ気分が滅入る状況でした。

 更に翌日の夕刻には、地震被災の調査や対応の為出動しようとした「海上保安庁」の飛行機と、着陸してきた日本航空の旅客機が、羽田空港滑走路で衝突・炎上。幸い日本航空の乗客・乗務員は乗務員の冷静な誘導で全員無事逃げ出せたが、保安庁の乗員は機長を除き他の乗組員が全員亡くなるという大事故が発生。まさに驚愕・波乱の幕開けとなりました。

 そういえば中国では龍は暴れると恐れられる象徴ともいわれているそうですね。今年はうるう年でもあり、なにか違ったことがありそうなのかな?
コロナ感染症対応も一定の落ち着きがみられたので、団体や企業でも今年は新年会を開催されたことだが、話題はこれらの災害見舞と支援対策などでいつもの正月気分も吹っ飛んだ幕開けです。

 昨年末から国内政治の国会情勢も、自民党派閥の政治パーティーによる資金集めの詳細を選管に届ける資金管理に不記載があり、裏金として使われているとの摘発をされ大混乱の状況にある。
 
 通常国会が開催されたが、重要な国の予算や法体系の整備や、何より国際情勢もロシアのウクライナへの軍事侵攻問題・中東のイスラエルとパレスチナの戦闘など、先行きが見通せず一層混とんとして世界経済の不安定も含めて紛争が一層拡大する心配もある。そんな混とんとした諸課題多い中で、平和で安定した日本の国をいかに導いてゆくかを、国会議員(政治家)はもとより、国民一体になって国論の統一を見出し、政策の振興を図らねばなりません。
 
 私の関わる地方議会も2月は新年度に向けての施策や予算について、諸課題に英断の覚悟で取り組み、人口減少社会に向けての時代の変革の必要な施策や予算の切込みに、英知を絞って取り組む必要があります。みんな他人事と傍観者にならず、自分事の責任者として取り組みましょう。

 皇紀2684年神武天皇ご即位以来の建国の精神「和をもって尊し」の国柄を誇りに、世界の貢献できる国造りを「建国記念の日」(2月11日)に、あらためて臨んでみましょう。 

為せば成る
為さねば成らぬ何事も
成らぬは人の為さぬなりけり  ― 上杉鷹山公遺訓 ―

月刊『致知」2024.2月号【巻頭の言葉】より引用 
JFEホールディングス名誉顧問 數土文夫

~ 一層の重みを持って 心に響く遺訓 ~

 上杉鷹山(一七五一~一八二二)、第九代米沢藩主。 十七歳で養子先の藩主に就任、破産寸前の藩財政を立て直し、江戸時代屈指の健全財政を確立した江戸時代の名君です。

 領主・領民一体となった治水、農地開発、桑の栽培、養蚕の奨励、 絹織物として米沢織に代表される殖産興業、さらには藩校「興譲館」の創設による子弟の教育、完全な飢饉の救済など、江戸期の藩主としては隔絶した成果を挙げています。 アメリカ第三十五代大統領ジョン・F・ケネディが、最も敬意を表する日本人として鷹山の名前を挙げたという話もあります。

 その鷹山の遺訓が次の言葉です。
「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」
(何事もやればできる。 が、 やらなければ何一つできない。できないのは、ただ、やらないだけなのだ。 他に理由などない)
 二十一世紀の現在、寿命は延び、人生は永くなりました。誰もが平等に十分な時間が与えられたいま、一層重みのある言葉として心に響いてきます。

~ 隠居の後に 成し遂げた大業 ~

 鷹山と同時代に生き、この遺訓をまさに実践して大業を成した男が二人います。
 一人は、偶然にも同じ十七歳で養子先、商家の当主になった伊能忠敬(一七四五~一八一八)です。 伊能家は現在の千葉、佐原(香取市)の酒造業、金融業、運送業を営み、代々名主などをしていましたが、当時、いつ廃業となってもおかしくない状態にありました。しかし、忠敬は持ち前の商才、勤勉さ、人徳で以て家運を立て直し、財を成しました。

 特に一七八三年、天明の大飢饉の時には私財をなげうって地域住民に米、金銭を分かち与え、住む村から一人の餓死者も出しませんでした。鷹山を彷彿とさせる逸話であり、両人とも実践改革者、人徳家であったと言えます。

 財を成した忠敬は、四十九歳で家督を息子に譲り隠居しました。が、五十歳で江戸へ出て、直ちに十九歳も年少の幕府天文方、高橋至時に弟子入りし、天文学、暦学、測量術などの習得に努めました。驚くべきことに五年後、忠敬は幕府の意を受けて蝦夷地(北海道)へ渡り、実際の測量を開始しています。

 忠敬が行った測量法は、距離と方角を測りながら進む導線法、 山上などから目標点の位置を測る会法、さらに天体観測と自ら訓練に訓練を重ねて会得した歩測で、心身にかかる負荷が大きく、大変な忍耐を要するものでした。

 以来、死去するまでの十七年間、忠敬は日本全国約四万キロ、地球一周分の距離を歩測し、「大日本沿海輿地全図」の全貌を完成させました。この地図の精度は想像を絶するもので、現代の地図に比べても誤差は〇・三%以内と遜色のないものでした。 一大事業の完成です。

~ 新しいことに挑戦する上で 年齢は関係ない ~

 当時、江戸幕府はロシアの来航を度々受けて対応に苦慮していました。 ペリー来航以前のことです。一七九二年、ラクスマンが遺日使節として根室に通商を求めて来航続いて一八〇四年、レザノフが同じく通商を求めて長崎に来航、さらには国境の決定についても関心を示してきました。

 幕府は当時、樺太がシベリアに連なる半島なのか、独立した島なのかさえ判然とせず、国防や外交どころではありませんでした。
 ここに二人目の男が登場します。 伊能忠敬の弟子、間宮林蔵 (一七七五~一八四四/生年には諸説あり) です。

 時の老中松平定信は林蔵を蝦夷地、樺太の派遣調査に当たらせたと伝えられています。二一八〇九年、林蔵は極寒の地で艱難辛苦の末、樺太が島であることを発見。さらに大陸のシベリア、中国の沿海州まで渡り、 彼の地の実情を探索しています。 それはまさに命懸けの探検で、ロシアとの外交上、非常に重要な情報となりました。林蔵が発見、確認した樺太とシベリアの間の海峡はその後シーボルトによって「間宮海峡」と命名されました。

 間宮林蔵の人生には、もう一波乱あります。五十歳を過ぎた頃、徳川将軍家のお庭番(スパイ)を務めています。 主要任務は、各藩の抜け荷の探索であったと思われます。 石見浜田藩の密貿易を告発し、また薩摩藩にも潜入の記録があります。極めつけは一八二八年、シーボルト事件を密告し、「大日本沿海輿地全図」の海外流出を防いだことです。

 鷹山、忠敬、林蔵。いずれも江戸時代に生きた立場の異なる三人に共通して言えることは、死ぬ直前まで働いて国の大事に尽くしたということです。新しいことに挑戦する上で、年齢は関係ない。このことを身を以て教えてくれている三人の生き方を、私たちも体現していきたいものです。