倫理とは(2024.7.1)

政治倫理とは?企業倫理とは?社会倫理とは?

 昨年の秋から自民党安倍派の政治資金パーティーの扱いで、売り上げのノルマを超えた部分について、法に基づく選挙管理員会に届け出もなく、個人にキックバックして、個人が自由に使える活動費(裏金)として配分されていたことが発覚。国から支出される政党交付金の扱いや、国から個人に毎月支払われる100万円の「文書交通費」、議員個人のパーテイーの収支報告などなど、国会議員の政治活動費あり方について不明瞭なことを指弾された。

 通常国会でいろいろ議論し各党の思惑の絡み合いで、本人たちも国民も納得しかねる決着で国会も閉会となった。そもそも自分たちの首を絞めるようなことを決めようとするのだから、簡単に決まることなどできないのは当たり前だ。ならば全くの第3者によって審議すればよいものをとも思うが、実態中身の事情を理解もなくばっさり答えを出すとまた実態にそぐわないものになってしまう恐れもある。そこの最終意見の集約は、社会の倫理に反しない答えを導き出すことだろう。

 日本が世界に誇る「自動車産業メーカー」は、安全基準の適合について各社の実験データーを作り、監督官庁に届け出て認可を受け、製造、出荷される。しかし、メーカー各社でデーターの改ざんや不十分なものが何年にもわたって通され、製造出荷されていたことが発覚した。全くの基本的安全性に問題はないとはいえ、たとえ自主喜寿雲といえども約束されたことは守るという基本の姿勢、いわゆる企業倫理によって消費者に貢献する基本姿勢は最も守られるべきものだ。

 今、東京都知事選挙が行われているが、候補者が56人ととてつもない状況のようだ。誰も被選挙権の有る国民なら立候補できるのではあるが、余りにも異常と思える。金のかからない選挙を実施するために、公営のポスター掲示場を予想50人分で選挙管理委員会が設けている。だが、増設が間に合わずクリアファイルで端っこに勝手に張ってとの対応の有様だ。

 ポスターの印刷費も公費で見てもらえるのだが、表現に自由が保障されているとはいえ公序良俗に反するものや、政策に全く関係にないものがあったり、もっとひどいのは掲示場の掲載権をまとめて買い取って営利として扱っている輩がいるということだ。全く公共の権利を無視冒涜する行為が実行されている日本の首都の状況を、外国からのインバウンドが伸びて国際諸外国から日本への関心も増えている今、世界にどう日本が映るのだろうか。その責任は誰にあるのだろう。

 やはり国民一人一人が主権者であり責任者である。その自覚を失くした国民の国家の姿は、糸の切れた凧のような道をたどることになりかねない。
責任者は誰か皆考えよう。すべてが自分の身に帰ってくることになるのだ。

己を克めて礼に復るを仁と為すかえ
            ― 『論語』淵第十二 ―

月刊『致知」2024.7月号【巻頭の言葉】より引用 
愛知専門尼僧堂堂頭 青山俊董

思いやりと礼節に富んだ 日本人の美徳

 あさみどり澄みわたりたる大空の
広きをおのが心ともがな

 風薫る新緑の季節を迎えると、思わず心に浮かぶ明治天皇の御製である。 明治天皇はその御生涯に約十万首の和歌をお読みになっているとのことであるが、ご歴代の天皇は並べて秀れた和歌を残しておられる。

 私共は直接に天皇に接することは叶わずとも、その御製を通して”大御心” に触れることができる。新年恒例の歌会始の伝統は年齢や職業、地位や国籍を問わず誰もが自らの歌を詠進することができるから、天皇陛下もまた和歌を通し様々な人々の真の声を聞く機会となる。

「君民一体」という言葉があるように、わが国では記紀万葉の昔から皇室と国民の間には相互理解と深い信頼関係が育まれてきた。

 初代米国総領事として安政三(一八五六)年に来日し、日米修好通商条約を締結したタウンゼント・ハリスという人物がいる。氏は『日本滞在記』の中で、下は一般庶民から上は江戸城内で謁見した将軍に至るまで、人々は衣・食・住において満ち足りており、生活は質素である。殊に城内で仕事をする武士たちの礼儀正しく、美しい立居振舞を見て、「私は日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、「疑はしくなる」と書き残している(渡辺京二著『逝きし世の面影』)。

 日本人の礼節については、『日本書紀』の注釈書といわれる鎌倉時代の『釈日本紀』の中にも興味深い記事がある。

 奈良時代に栗田真人という外交官がいた。西暦七〇二年の十月に第八回遣唐使として中国の楚州に上陸した一行を出迎えた彼の国の人々は、「しばし聞くに、海東に大倭國(日本)あり。これを君子国といふ。人民は豊楽にして、礼儀は厚く行はれたり。 今、使人を看るに、儀容ははなはだ浄く、豊信ぜざらんや」と。同様の記録は『旧唐書』の「日本伝」の中にもあり、「倭国の人々は好んで経書を読み、文を解し、容姿は温雅なり」と書かれているそうだ。

 このような事例は、今日でも大震災が発生した時に、日本人が秩序ある行動をとり、お互いを思いやる気遣いを示す振る舞いなどにもみられることである。しかし、近年そのような美徳が次第に薄れつつあるのではとの懸念を覚えることがある。

 夏目漱石の『草枕』に「智に働けば角がたつ。情に棹させば流される。 意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい」とある。『論語』も「己を克めて礼に復るを仁と為す」とあるように、住みにくい世であればこそ人と人、国と国との間にも思いやりと礼節は欠かせない潤滑油のようなものであると思う。

引くことを知らぬ 正義の争いは災いの種となる

 人類の歴史をみれば、戦争や大地震などの禍事は常に一定の間隔で繰り返し起きている。 平安時代の寛仁元(一〇一七)年には京は「未だ三日二夜の雨を見ず」という大雨と洪水に見舞われ、疫病が流行し、その二年後には「刀伊入寇」という大事件が起きている。東女真族というツングース系民族が朝鮮の高麗を襲った後、北部九州に攻めこんできた事件で、各地で二千人近い日本人が拉致されたり、殺されたりした事件である。

 自らが平和であろうとしても、このような大事件や異変が起こり得ることは、二年前からのロシアによるウクライナへの軍事侵攻や昨年からのパレスチナ自治区でのイスラエルとハマスの戦闘でも明らかである。いずれもわが国とは遠い国々であるが、台湾や尖閣列島、沖縄までもが自国領土と主張する中国や、現在もわが国固有の北方領土を軍事占拠しているロシアはわが国のすぐ傍に位置する隣国である。 米韓による軍事脅威を煽って国際法を無視した核開発を進める北朝鮮を含めて、これらの国々は戦狼外交で周辺国を脅かしている。

 国策を実現するために暴力や虚言(プロパガンダ)をもってすることは真の文明国とは言えない。孔子はいまから二千五百年も前に、「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」と説き、周辺国から真に尊敬される文明の大国は「近き者悦び、遠き者来たる」と評した。

 幕末の思想家・吉田松陰も兵を学び、兵を用いる者は強い倫理観や道徳心をもつ必要性を説いている。孔子誕生の百年前、斉の桓公を中心に、当時中原に覇を競っていた国々の為政者たちが宋国北境の葵丘に会して、黄河の堤防を曲ぐることなき(黄河の水を兵器として使ってはならない)盟約を結んだそうである。抑止力が目的と考えられていた核兵器も、人類が理性を失えばエスカレートして悪魔の凶器となる恐れは否定できない。

『論語』の「己を克めて礼に復る」という言葉は、他者を責める前に、自らの不徳を自省して礼節を失わぬ慎みのこころと思うが、お互いに引くことを知らぬ正義の争いは、時に災いの種となり世の中を乱す原因ともなる。また、礼節とは人間相互だけのものではなく、私共の生き地球や自然に対しても持つべきものである。このことは私共の日常生活においても留意しておくべきことであろう。

 私共はいま、人間として〝真に守るべき価値とは何か”ということを深慮し、戦争や自然災害の世を生きなければならない時を迎えている
ように思う。