「春は曙」(2009/4/1)

重い土を持ち上げ、袴を纏ってしっかり芽を出すつくしのごとく。

 いよいよ季節は春爛漫を迎える。
咲き誇る草花も、寒い冬をしっかりと耐え忍んでその華を咲かせている。

 厳しい不況が続いているが、やがて重い土を持ち上げて耐え忍んだ力を発揮する時も来るだろう。

今は我慢の耐え時なのだろう。

 自分だけが耐えなければならないのではない。みんな耐えなければならないし、支えあわなければならないのだ、と言うことを理解しよう。
 新年度が始まり、いろいろ気分転換があったり、緊張があったり、予算で資金が獲得できたりと、転換を生み出す力の要素が生きてくるだろう。

 景気がどうのこうのに関係なく、先月のwbc(世界野球大会)で、侍ジャパン頑張れ!甲子園での選抜野球大会の高校生に頑張れ!と、心を込めた念ずる応援の力が、選手のエネルギーとなったと思う。

 要は心の問題でもあろう。

おふくろのおしめ 母親の無償の愛

-アサヒビール名誉顧問 中條高德(月刊『致知』4月号巻頭の言葉より抜粋引用)-

『豊かさに感謝する心を』

 かつて『おしん』というドラマがわが国で大人気となった。そしてアジアの諸国でももてはやされた。

 ほぼ5世紀間にわたった西欧列強による植民地化の荒波を辛うじて免れ、近代化に成功し、その決戦とも言うべき日露戦争(1904~05年)に勝って、心の自由と民族の誇りを得たものの、庶民の生活は極めて貧しかった。

 豊饒(ほうじょう)の海に痴(し)れるいまの若者たちには想像のつかないほどの貧乏であった。

 文字の読めない人すらいたが、皆、凛(りん)として生きていた。いまさら貧乏を勧める気など毛頭ない。豊かさは全人類の目指す課題だから、そのこと自体悪かろうはずがない。だが、識者の多くが、豊かさにたどりつくと、目指すエネルギーが弱くなり(夢見なくなる)、耐える力が萎(な)えると説く。

 人は常に感謝の想念に裏打ちされて生き続けなければ、人生を誤ることが多い。

 豊かさの実感を肌で感じ、感謝する心を養うには、先人たちの生き抜いた実相を伝えることこそ最高の説得であろうと思う。

『己を捨て、相手を立てる』

 筆者の尊敬する平辰(たいらたつ)さん(日本の台所を任ずる㈱大庄の社長)の母親の実話をご紹介しよう。

 平成17年、平さんのお母さんが天寿を全うされてこの世を去られた。この時のご挨拶のエッセンスをありのままにお伝えする。

 「私たち兄弟は佐渡に生まれ、島で育ち、18歳の頃上京しました。亡くなった母は現代版『おしん』かもしれません。

 祖父に子供がなかったので、末弟(私の父)が世継ぎとされ、父は海軍の軍人でしたので、船に乗っており、婿殿不在の平家に嫁いだのが母の八重(やえ)でした。(中略)

 母は、子供たちのおしめ(おむつ)を古着の布の切れ端で縫(ぬ)い、汚れたおしめは、凍りつく川に運び、洗ってくれました。

 冬の雪の降る日でした。母のその手は、あかぎれで割れ、腫(は)れ上がっていました。血の出てくる割れ口には、ご飯粒を詰めることで耐えていました。

 そんな手であっても、「子供には少しでも温かいおしめを……」と赤ん坊が汚したおしめを洗ってコタツで温めておいてくれました。

 食事をしながら、子供におっぱいを飲ませている時など、ビリビリと下痢のうんちをし、抱っこしている母の腿(もも)が熱くなってくると、食事を中座して、そのおしめをはずし、下痢でただれたお尻を、母は舌で舐(な)め取っては吐き出し、吐き出しながらコタツで温めてあったおしめを取り換えるのでした。

 いまのように柔らかい紙はなく、紙といえば新聞紙くらいのものでした。また、柔らかい布もなく、おしめも布を縫い合わせているので、それで拭(ふ)けば赤ん坊のお尻はさらに赤く腫れ上がってしまいます。

 母は、「子供が痛かろう」と自分の舌で、その下痢のうんちを舐めて拭き取り、その口で再び食事を摂(と)ることも度々ありました。

 母は毎朝4時に起き、12人の家族の朝食を作りました。そのまな板のトントンという音で私は目を覚ます毎日でした。

 朝食が済むと肥料の糞尿(ふんにょう)を大きな細長い肥桶(こえおけ)に入れ、天秤棒(てんびんぼう)で担ぎ、1時間もかかる蛇の多い山道を、山の田や畑に運んでいきました。足をすべらせ肥桶ごと倒れ、うんちだらけになった思い出もあります。

 野良仕事は、夜8時、9時に終わることも多く、常に星を見なければ家に帰ることはありませんでした。

 母が上京する時には、足が悪いのを忘れたかのように、米だ芋だと重いのにもかかわらず持ってきてもくれました。

 昭和57年、やる気地蔵を祀(まつ)った「やる気茶屋」を始めた時、50キロもある石の地蔵さんを背負って佐渡からやってきてくれて、びっくりしました(筆者はこの時からの御縁)。

 母が死を覚悟した時だと思われますが、私に話しかけてきたことがありました。

 『私はもう畑にも出られん。田圃(たんぼ)にも行けん。仕事が出来なければ、人のためにならん。たとえ我が子であっても迷惑はかけたくない』と言い、その後自らの食を細めて“水”のみとし、大樹が枯れるが如(ごと)く心臓を静かに止めていったのだと思います。

 美しい 死にかた求め 自らの

        食を細めて 枯れていく

 偉大なる母に、無償の愛の尊さと大将の道を教えていただきました」(原文そのまま)

 並居る参列者の悉(ことごと)くは感電した如く感動の坩堝(るつぼ)に浸(ひた)った。まして57年から平さんと御縁をいただき、お母さんと度々お会いした私には、そのお顔からはとても天秤棒の肥桶を担いだ母親像は浮かんでこなかった。それどころか、すべての人間を抱き締めてくださる慈愛溢(あふ)れる聖母観音像のようなお母さんであった。

 この親子に接すれば接するほど「この親にしてこの子あり」の感を深くする。親の躾(しつけ)の大切さをしみじみと感ずる。

 誤解のないよう特に若い母親の読者に告げたい。

 生んだ母親が子をなめて育てるなど動物界の常識であるが、文明開化のいまの世に、このような非衛生的な育て方をしなさいと勧めるのでは決してない。こうまでして育てた母親の無償の愛。己(母親)を捨て、相手(子供)を立てる真実の愛を摑(つか)み取ってほしい。

 この真実の愛を理解した母親のみが、我が子が成長した日、「ならぬことはならぬ」と厳しく躾ができるという「陰陽の理(ことわり)」をしっかり学んでいただきたい。