暑い夏・甲子園だ!選挙だ!(2009/8/1)

あれから50年 甲子園で”全国制覇を目指せ”西条高校

西条高校

 8月と言えば何といっても、甲子園の高校野球が注目を集める話題である。

 我が母校「西条高校」が、愛媛県代表として夏は17年ぶり、6度目の出場を決めた。
奇遇にも「西条」を全国に知らしめた『全国制覇』から50年目に当たる。あの時私は小学生で、選手の凱旋パレードは今も心に焼き付いている。

 今年春の甲子園「選抜大会」にも出場、初戦で大阪代表の「PL学園」に敗れはしたものの堂々の戦い、昨年の秋の「神宮大会」では準決勝の戦跡を残し、好投手“秋山”君を軸に、投打にバランスのとれた注目校となっている。先の愛媛大会では抜群の強さを見せていた。

 選手も『全国制覇』の気概を持って臨んでいるが、気負いすぎず1戦1戦を勝ち抜き、『全国の頂点』を目指して頑張って欲しい。みんなで応援しよう。
暑い夏になる。

 政権交代が問われる「衆議院議員選挙」8月30日投票だが

     チェンジすべきは政局では無い。日本のこれからだ。

 衆議院が解散。いよいよ8月18日公示、30日投票の選挙に向け走っている。

 最近の国政選挙は「劇場型」で観客を巻き添えにして、演じるタレントの話題性が中心になっていると思われ、危惧を感じる。

 特に今回は、自民党を中心とする政権が馬鹿げた失脚で観客から見放され、タレントの入れ替えが求められている風潮が顕著だ。まだしっかりとした演目も役者も準備し、決まっていないのに、無料入場券をばら撒いて引き込もうとしているようなものだ。

 この国は中央集権により、目覚ましい発展をこの50年間余で築いてきたが、今、様々な制度疲労が露出し、問題点が多い。

 ここでしっかりと、国民1人1人がこれからのこの国のあり方をしっかりと考えなければならない。基本として国民の生活を支える所得を確保することであるが、これまで輸出を中心として産業基盤を強化し、この国は成り立ってきた。全てが自給できる資源の無い国としてはこれからも輸出貿易で活路を見出さなければならない。

 ならば、世界から信頼される国としてのあり方をまず問わ無ければならないが、外交方針などは今この国は、ガタガタである。世界中からもうあてにもされなければ信頼もされない状況だ。
稼ぐ道が閉ざされるのに国民を救う道があるのだろうか。やがては北朝鮮のように世界におねだりするか、恫喝する国家となる道を歩むことになるのか私は危惧する。
 大きな話のようであるがここをしっかりとして初めて私たちの生活は確保できるのだ。

 今度の選挙でこれまで以上の政権選択を迫られるが、1人1人よく考えよう。
角を矯めて牛を殺してはならない。怪我の手当てで麻酔ばかりに頼ってはならない。

 私たちの生活が守れるか、特に地方で安心して生きて行けるのか問われる暑い夏だ。

明珠在掌

-南無の会長 松原泰道(月刊『致知』8月号巻頭の言葉より抜粋引用)-

『幸せは我が内にある』

 すべてのものには、そのものをそのものたらしめる根源的な機能(はたらき)があります。一枚のちり紙も例外ではなく、ものを拭(ふ)くという機能を備えています。携帯電話がいくら便利でも、ものを拭く機能はありません。すべてのものにはそれぞれ固有の機能があり、この機能を象徴的に明珠(みょうじゅ)、仏性(ぶっしょう)などといいます。

  「明珠在掌(明珠掌に在り)(みょうじゅたなごころにあり)」という禅語は、その大切な象徴が手のひら、至近の距離の中にあることを説いています。

  弘法大師空海は『般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)』の冒頭で次のように記しています。
 「それ仏法遥(はるか)にあらず。心中にして即(すなわ)ち近し、真如外(ほか)にあらず。身を捨てて何(いずれ)かに求めん」
  真理は自分の外にあるものではない。自分の一番身近なところ、内にあるものであり、それを外に求める必要はない。
  ところが、近くにあるためかえって人は迷います。私など、メガネをかけていることを忘れて、「メガネがない」と探し回る愚行を演じたことがあります。

  『青い鳥』という童話をご存じでしょう。幸せの青い鳥を求めて旅に出たチルチルとミチルが、旅の末に幸せは身近なところにあることに気づく物語です。
  一休禅師の狂歌も同じ事を説いています。

 「極楽は西方のみかは東にも北道(きたみち来た路)さがせ南(みんなみ皆身)にあり」

浄土真宗では西方浄土というが、極楽は西のほうにだけあるものではなく、東にもあるし、北にも南にもどこにでもある。

  北道(きたみち)を「来た路」と掛け、自分がこれまで歩んできた路を振り返ればこれから行き着く先ははっきりしてくること。また南を「皆身」に掛け、極楽はつまるところここにもある、各々の心の内にあることを説いています。

  道元禅師も次のように詠んでいます。

 「極楽は眉毛(まゆげ)の上のつるしものあまり近さに見つけざりけり」

解説は不要でしょう。次の漢詩も有名です。

 「尽日(じんじつ)春を尋ねて西また東
  茫鞋(ぼうあい)あまねし朧頭(ろうとう)の雲、
  帰り来つて梅花をねんずれば、
  春は枝頭にあつて既に十分」

 春が来たと聞き、その兆しを求めて草履が擦り切れるまで探し回ったけれども、どこにも見当たらない。疲れ切って家に帰ってくると、庭の梅の木が花を咲かせてよい香りがしており、春はこんなにも身近なところにあったことに気がついた。

 幸福を求めて遠くまで出かけていくことの愚かさを、優美な詩歌の中で象徴的に詠んでいます。私たちは、肝心の「いま、ここ」を捨て、どこかよそに幸せを求めていきがちですが、それは決して幸福を得る道ではないのです。

『心を耕し、柔らかくする』

 釈尊がある農村で説法をしていました。そこは仏教に敵対意識を持つバラモン教の盛んな村で、1人の農民が釈尊を冷やかして言いました。
  「ご出家よ、布教も結構だけれども、いまこの農村は、ご覧の通り猫の手も借りたいほどの農繁期だ。そんな説法などやめて、田んぼを耕してくれたほうが皆助かるんだ」
釈尊は答えて言いました。
  「私も耕しています。あなた方の心を、私も耕しているのです」
  怪訝な顔をする農民に釈尊は続けました。
  「農土を放っておくと荒れ地になる。雑草もそのままにしておけば害を為(な)しますが、抜いて土に埋めておけば立派な肥料になります。同じように、私たちも心を野放しにしておくと人間を駄目にしてしまいますが、煩悩(ぼんのう)をよく耕して心に漬け込んでいくと、悟りの肥やしになるのです」
  悩みも苦しみもよく耕せば、それが幸福のもとになり得ます。
  例えば、病気で苦しんでいる時にはこんな不幸はないと考えがちですが、あえて同じ病気に苦しむ患者さんを見舞って、治療の経緯を語るなら、相手の方から喜ばれ、病気になったおかげで自分自身も健康な時には味わえなかった喜びを得られるでしょう。これはあらゆる逆境にも当てはまります。その人の心一つこの不況の中にも幸福を見出すことはできるものです。 
  幸福とは、他から与えられるものではなく、自ら発見してつかみ取っていくものです。与えられるのを待っているのではなく、マイナスの中にプラスを発見し、耕していくところに人生の生きがいはあります。両手の掌に鋤(すき)や鍬(くわ)を持って一生懸命に耕していくことによって掌の中に明珠がつくられていくのです。
  幸福は足下にあり。このことを忘れず、日々の生活の中から幸福を見出し、豊かな人生を築いていきたいものです。