秋波立つ(2009/9/1)

衆議院選挙も終わった「民主党」大躍進で政権を担う!

政権交代は世代交代! だが3分の2にも及ぶ新人議員で、この不況や難局に、速やかで的確な対応が出来るだろうか? 
結果は出たのだ。みんなが責任を持とう。
特に「新選良」の議員さんには、国民を欺かず、犠牲を押し付けない命がけの姿勢を強く求めておきたいものだ。

「自民党」惨敗大物議員も苦杯、政権から下野!

政権内部下の足並みの乱れや、国民に信を問うことなく総理が交代したことなどから、国民から信頼を失い、自民の退場コールの風が吹き続き、最後まで押し戻すことが出来ないままに、この結果を生んだものと思う。
みんながドブ板で地元に張り付いて頑張ったが、既に国民からの距離が遠のいてしまっていたのだろう。肝に銘じてエネルギーを絶やさず、健全野党を期待する。

いずれにしても、秋波ざわめきが続くだろう。

熱い内に、早い体制の構築が必要だ。
地方議会にある我々も、いろいろな対応能力が求められようが、冷静に臨みたい。
県民・市民に不安をあおることは慎まなければならない。むしろ、安心感を与える責任があるのだ

知識、見識、胆識

-ウシオ電機会長 牛尾治朗(月刊『致知』9月号巻頭の言葉より抜粋引用)-

『知識を持っているだけでは値打ちがない』

  システム工学のパイオニアであるラッセル・L・アコフ氏は、「インフォメーション」(Information=情報)、「ナレッジ」(kunowl-edge=知識)、「ウィズダム」(wisdom=叡智(えいち))の関係について興味深い提唱をしています。

  インフォメーションは、情報と情報の関係性を理解したものであり、そのパターンを整理整頓するとナレッジになる。さらにそれを様々な原理への理解に深め、向上していくことによってウィズダムに昇華していくと説きました。

  そこで私は、インフォメーションがナレッジへ移行する過程においては、「インテリジェンス」(inteligence=知性)が必要ではないかと考えます。インテリジェンスによってナレッジに息が通い、ウィズダムに成長するからです。
  これはITを利用する際にも心得ておかなければならないことです。

  インターネットで配信される膨大かつ雑多な情報は、受け取る人にインテリジェンスがなければ上手(うま)く活用できず、逆に翻弄(ほんろう)されてしまいます。また提供する側も、インテリジェンスによって昇華した情報を発信していかなければ、社会を混乱させるもとになります。テレビが視聴者に媚(こ)びて低俗な番組作りに走ってはならないのと同じことです。

  この問題から連想されるのが、安岡正篤(やすひろ)さんからよく聞かされた「知識、見識、胆識(たんしき)」の話です。インフォメーションに当たるのが知識であり、インテリジェンスが見識。しかしウィズダムと胆識は少し意味合いが異なり、ウィズダムをさらに推し進めたものが胆識ということができます。

  ただ知識を持っているだけでは値打ちがない。事に当たってこれを解決しようという時に、こうしよう、こうでなければならないという判断は、人格、体験、あるいはそこから得た悟りなどから生まれるものであり、それが見識だと説明しています。

  しかし、せっかく見識を持っていても、それを実現する力がなければ役に立たない。いかなる抵抗があっても、いかなる困難に臨(のぞ)んでも、信ずるところを敢然として断行し得る実行力、度胸を伴った見識が胆識であり、胆識というものがあって初めて本当の知識人である、と安岡さんは書いています。

『自分の発言に責任を持つ』

  安岡さんは、学問も胆識に至って初めて活学、生きた学びになると説いています。
学んだことを単なる知識に留(とど)めておくのではなく、自ら実践し、人生に活かしていくことこそが重要なのです。

  西洋の実存主義もこれに通ずるところがあります。実存主義の「アンガージュマン」(engagement)というフランスの言葉には、個人と社会との契約から政治への参加といった解釈があり、英語では「コミットメント」(commitment)と表現されます。自分の言ったことは行動に移し、結果を出さなければ単なる空理空論に過ぎないという、胆識に通じるこの考え方に青年期に大いに共感を覚えたことが、文化人を志向していた私が経営者として生きる覚悟を固める一つの契機となりました。

  私が経済同友会の代表幹事の時代に、副代表幹事を務めていただいた大阪商船三井船舶元会長の轉法輪奏(てんぽうりんすすむ)さんは、私とは異なる道をへて経営者になった方ですが、その志向するところは私と同じでした。

  轉法輪さんは浄土真宗の家に生まれますが、東大で共産党の活動に参加した後、キリスト教に改宗しました。仏教に戻らずキリスト教を選んだのは、その行動力に深く共感を覚えたからだそうです。

  マザー・テレサは、路上で行き倒れている人を見かけると、たとえすぐ亡くなることが分かっていても必ず連れて帰り、自分の腕の中で看(み)取りました。その偉大な行動力に深く感銘を受けたのだとおっしゃっていました。マザー・テレサの行動力の源である深い愛は、胆識に通じるものといえるでしょう。

  経済の先行きは依然として不透明ですが、経営においては計画したことを全精力を注ぎ込み実現しなければなりません。この難しい情勢の中で、自分の発言に責任を持つためにも、上に立つ者は胆識を養わなければならないのです。