2017年 さらば!!(2017/12/1)

世界秩序も大揺らぎしている

 先月はアメリカのトランプ大統領がわが国を初めて訪問、続いて「韓国」「中国」を訪問、首脳会談による外交の場を設けた。さらにエーペック会議にも出席、さらにはフィリピンも訪問などを通じ、北朝鮮の暴走に歯止めをかけ核開発をやめさせる外交と、経済制裁圧力を呼びかけ、日本も共同歩調の姿勢を明確に示しているのだが、韓国・中国ともに日本が期待するような姿勢は見られないで、やはりしたたかというか、自分に不利に火の粉がかかると思われるような事には同調はしない。アメリカだって「アメリカファースト」で自分の都合の良いことを押し付け、うまく行けばそれがすべてのトランプ流だから5分5分の話ではあろう。

 ことほど左様にまずは自分ファーストだから、協調性などあるようでないような状況だ。中国は世界1を目指しているし、ロシアも世界1の姿勢を崩さない、アメリカは当然プライドも持っている。以前は米ロのバランスが言われたのだが、もう今は3極が問われているし、イスラム国は落ち着いたが、ゲリラのように小国や小集団がとんでもないことを起こす可能性などもあり、色々なマグマがうごめいてそれを落ち着かせる力作用が利かなくなっている時で、気が抜けない国際感覚も必要だ。

国内でも訳のわからぬことが多い

 国内においても自分の欲望のためにSNSを使って生の声ではなく、バーチャル空間でやりとりし、人の命を何の感情もないかの如く殺害し、ほったらかしにして何とも苦にしないような殺人事件。
 国会に於いての議論も、最初から結論ありきの一方的な論議で、かみ合わない議論を報道が煽るような状況で、何時間費やしても建設的に方向が見いだせない場面が多すぎる。

 大相撲の暴行問題も報道を聞けば聞くほど、何が真実であるのかさえ解らなくしている。みんなが冷静な状況での判断をもって、報道をしてもらったらいいので、みんなが悪者になってしまっているようだ。横綱「日馬富士」の引退だけでは片付きそうにない。
 訳が分からん情報に惑わされすぎていないだろうか?

正常な社会の構築を目指して、物豊かさを追うことを主とせず、相互理解と信頼の「精神」を大切にしよう

 世界に誇ってきた日本の技術と信頼性を裏切っていたような事実が、今年色々自主的に公表された。

 日産・スバルなど自動車の製造過程で、組み立て検査を資格にないものに従事させていた。
神戸製鋼・三菱マテリアル・東レなどでデータ改ざんにより、品質基準は満たしているとはいえ不正があった。などなど信じられないような日常的に何年も行われていたとのことだが、日本製品の信頼を損ねるばかりか競争相手に付け入られる弱点を晒したことになり、この信頼回復には莫大なエネルギーが必要で、まさに築城3年落城1日と嘆きでは済まされない事態だ。

 悪者探しばかりにエネルギーを費やしていてはならない。人間の本質を求めての「善」を大切にする心を守り育てよう。

 物の豊かさなどやがてはごみのように邪魔になることが多いものだ。
年の瀬を迎えるが、今年を反省し、新しい希望を育む道を求めて頑張ろう。

明日に対するいま

月刊『致知」2017.12月号【巻頭の言葉】より引用  茶道裏千家家元 千 玄室

『他者の苦しみ痛みは己の苦しみ痛みである』

 中国の聖人たちの教えでは、自然と人間との同一体と言われる。中でも張横渠「四言教」では、天地の為に心を立つ・往聖の為に絶学を継ぐ・万世の為に太平を開く、とされ、「自然に学び、天地に代わって心を立てねばならない」のであるとされている。

 人間は、せっかく善い心を与えられながらそれを開くことをしないし、なかなかできないので、自然が長い歴史の中で人にそれを教えてきた。

 真の人間として生きるには自然の精神、宇宙の精神を理解しなければならない。地球上に住まわせていただく事に感謝し、有難く思い、宇宙の神秘を大切に思う人がどれだけおられようか。

 陽明学に「天地万物は本吾が一体のものたり」(天地万物は元は吾と一体である)という言葉がある。自分と万物はもともと一体であるから、他者の苦しみ痛みは己の苦しみ痛みであると心することが必要だとの考えだ。

『東西文化交流の基を作った茶の湯』

  中世末(1577)に来日したキリスト教宣教師ジョアン・ロドリゲスは、堺で茶の場に接し驚いたこと、いまもバチカンの図書室にある『日本教会史』に述べている。

 小さな茶の家、それは市中の山居であり、まるで隠者の家の風を表している。茶の場は、あらゆる人を温和にさせ身分の上下なく、謹んで一盌を主と客で楽しむ。床の飾りに野の花の一輪、そこには自然とも一体と感じられる雰囲気があった。祈りに近い環境であると。

 多くのバテレンが千利休に茶の場を習い、キリストの教えを広げた。禅宗を背景とする茶の場がキリスト教と一体になり、いわば東西文化の交流の基をつくったのである。利休の茶はあらゆる宗教のカタルシス(受肉)の如きで、茶室の小さな入り口は狭き門であり、その門をくぐるためには階級も何もない裸の人間にならなくてはならない。武家はすべて帯刀を外し、扇子一本だけの丸腰で茶室に入る。「和」、即ち平和をつくるのが茶室であった。

 イエスの教え「狭き門を求める者は命の泉に達す」この狭き門が茶室の入り口「にじり口」であろう。茶の湯は日本の宗教、そして中国の儒教・道教の教えを精神に取り入れ、たくみに日本化した総合文化なのである。

 歴史と伝統は一体のように考えられるが、歴史は時代時代においてあったあらゆる事象が正しく伝えられるものとして必要なものであり、伝統は人間が生活の上に必要とされるもの、いわゆる生活文化が時とともに、次世代に受け継がれてできていくものである。

 ツキデウス(古代ギリシャの哲人)が「明日を思うな、今を考えること」といったが、これは人間の生は今を大切にし、いまを知ることによって明日があると教える言葉である。確かに伝統は歴史とは異なる重みをもつ。それは生きている人間が様々な伝統的なものを背負って生きているからであろう。

 真の人間として生きるには 自然の精神、宇宙の精神を理解しなければならない。