落ち着く先は?(2018/6/1)
いつまで続く国会の空虚さ!
一体どうなっているのだろう。相変わらず「モリカケ」「役所の文書管理の不明朗」、国家の体系を為す政策論争に及ばない問題で、明けても暮れても時間が費やされ、重要な法案審議はボイコットで、空転する状況。
世界に誇る護送船団でこの国を守り、世界の荒波を乗り越えて、築いてきた「日本丸」であるが、あっちこっちから穴が開き、紙で貼ったような繕いをするものだから、ますます傷が大きく修理も聞かない状況に追い込まれているようだ。
与党も野党もない。いい加減に、本質の改革に取り組むべきだろう。
それに輪をかけるようにマスコミが追っかけ突っ込むものだから、余計に混乱を大きくしている。
この国をどこかの港にとにかく入港させ、態勢の立て直しが必要ではないだろうか? このままでは国民が船酔いし、病人続出となり、疲弊してしまわないか危惧される。
まやかしの平和パフォーマンスにしてはならない!
国際的には、北朝鮮が核開発や長距離ミサイル開発の中止を表明し、平和への道を歩む姿勢を見せ、つぎにアメリカを相手に対等な交渉のできる国家としての存在を示そうとした。
しかし北朝鮮の虚勢は、いつ暴発があるかしれないものであり、まやかしの微笑みに手を貸すと大きなしっぺ返しの尻拭いに引っ張り込まれる。これまでもたびたび関係国では経験があり学んでいる。
南北会談を実現させ、韓国の地へ足を踏み入れた。アメリカの人質3名も帰還に応じた。核実験場も爆破し放棄の姿勢も見せた。
アメリカなどの要求を呑み一定の進歩の有る姿勢を見せたのだが、経済解除をしてくれないので、アメリカに会談中止のポーズを見せて脅しに入ったのだが、6月12日にいよいよ予定していたシンガポールでの米朝首脳会談を、トランプ大統領は嫌なら中止だと突き放した。これに慌てて韓国大統領にとり持ちを頼むなど、北朝鮮も揺れ動き、トランプ商法に対峙して、これまでの相手とは違うことが解ってきたのか?面食らっているようでもある。
これによりまた振出しに戻る状況になるのだが、一喜一憂しながら、今後一層予断が許されない緊張状態となることだろう。
日本と韓国の姿勢が、今後の平和実現に大きな役割がある。
真の平和な環境をつくるためには、完全に核を廃棄させることだ。
これまでの度重なる約束放棄や、権力保持にための残忍な粛清行動、人権無視の拉致行動・・・決して許してはならない。
どれ程まで自らを粛清するかを見定めるまで、制裁の心をしっかり持つことこそが、平和につながり道を開くことになるだろう。
梅雨の湿気に負けない爽やかな風を起こそう!
いよいよ季節は梅雨入りだ。恵みの雨も万物には欠かせないのだが、全国のあちこちで近年は集中豪雨も引き起こし、油断ならない。
願わくば、良きお湿りで、時々は洗濯物もカラット乾くような、爽やかな梅雨を願うばかりだ。
県政も加計学園問題で、政府とも意思疎通を欠く事柄が出ているが、しこりの残すことの無い終息を願うばかりだ。いまさら開校を取り消したり閉鎖させたりできるものではないのだから・・。憂鬱な問題である。
天候も人の心も湿ってカビが生えることの無いように、自分の身の回りの整理もいつも心がけておきたいものだ。
先月は「明比昭治後援会」として、恒例の行事である「親睦ゴルフコンペ」と「小豆島を訪ねての研修旅行」が、事前の天気予報では雨が心配されていたのであるが、お蔭様で天候に恵まれ実施できた。誠に有り難く、ゴルフコンペでは「ホールインワン」が出てみんなでお祝いさせてもらった。
みんなでさわやかな笑顔を交わしながら、色々あっても乗り切ろう。
一椀の茶が育んできた日本の心
月刊『致知」2018.6月号【巻頭の言葉】より引用
千 玄室(茶道裏千家前家)
『平穏な思想を生み出した茶の動き』
「喫茶」は中国から始まり、道教と結びつけられた。当時中国では儒教と共に仏教が盛んであったが、道教の教えである人倫道徳の広がり、唐の時代に喫茶という単なる飲み物が道徳的教養、いわば心理的に人心を落ち着かせ平穏な思想を生み出すものとされていた。
酒は嗜好の飲み物であり好き嫌いもある。また、酒に酔うと争いになる危険性も否めない。だが一椀の茶は、穏やかに交わりを深くする効果があった。
8世紀後半、喫茶ブームが起きて一気に茶が広まった。文人官僚の教養といわれる琴棋書画に喫茶の道が加わる。文人や高級官僚が琴を奏で囲碁を打つ。書や画を嗜み互いにいろいろなことを論じ合う。その様子がわかる「琴棋書画の図」などに茶を運ぶ給仕の姿も描かれている。
このような流れ、風習を、唐松、宋の時代に中国に渡り仏堂宗禅を修め帰った僧侶たちが日本に伝えた。
弘仁6年、嵯峨天皇が近江国唐崎行幸の斉、永忠大僧都が梵釈寺で帝にお茶を献じたことが『日本後記』に書かれている。天皇がお茶を飲まれたことにより、日本でもぼちぼちお茶が飲まれる機が生まれてくる。
永忠大僧都は三十年間唐の長安に滞在したので、同時期の留学僧である伝教大師(最澄)や弘法大師(空海)と交流を深め、ともに喫茶したであろう。
この永忠大僧都は茶とは浅からぬ縁があるようで、留学中滞在していた西明寺から茶ひきや茶具が出土しており、この時に喫茶の法を体験したものと思われる。
『心のゆとりがあってこそ真味が味わえる』
中国では明時代以降強く固めた型の茶を使わなくなり、抹茶や煎茶が用いられる。茶ひきで茶の葉をごしごしと挽いて粉末にして用いた。茶碾きで茶の葉をごしごしと碾いて粉末にして用いた。後にはそれが石臼や茶臼となる。10世紀ごろになると酒が一般に広まり、面白いことに酒と茶とどちらが人間に良し悪しかという酒茶論が世をにぎわせた。郷貢進士・王敖の著『茶酒論』である。唐時代の喫茶法などその徳が述べられており、その仲裁には面白いことに水がとうじょうしている。
我が国でも中世・蘭叔玄秀が著した『酒茶論』がある。とにかく酒も茶もともによき水が無ければ美味しくない。美味しい水を求め沸かして茶を点て煎じてこそ、人の喉の渇きを潤す。日本の酒茶論の結論は、心のゆとりがあってこそ真味が味わえるのだと物語っている。
とかく最近はお茶が流行りで、ペットボトルの各種のお茶が自動販売機にホット・コールドと並んでいる。また飲食物でも「抹茶」と書き入れたものが創作され人々の口に入る。抹茶は茶葉そのもの粉末であり、その成分には特に「カテキン」が多く含まれ人間の身体に適し薬用作用があり、健康維持に適するなど学会でも発表されており、抹茶を毎日飲む人はがんを抑制する等の効果も出ている。
私は冗談で「母の胎内で生まれるまでお茶で育ったし、この歳になるまで随分お茶をいただいているので私の血は緑です。」と言っていいほどお茶をいただく。
アジアでは多くの国で主食は米であり、またそれに合わせる飲み物はお茶である。米と茶の組み合わせも肉魚食とともに必要な滋養である。
何でもなくいただいているものに対して、その根源を知り、ありがたい気持ちを持つことが大切な栄養になる。
何でもなくいただいているものに対して、その根源を知り、有難い気持ちを持つことが大切な栄養になる。