コロナ禍を超えて築こう新時代!(2020/6/1)

「緊急事態宣言」でコロナ禍の蔓延初期対応は乗り越えたか?
第2波・第3波を想定の上、「災い転じて福を呼び込む」ために、手を緩めず、新しい社会生活や経済活動の構造変革に取り組もう。

 2月以来コロナ、コロナで、わが国はもとより世界中で拡大感染防止のため大騒動、未だに治療薬や対処法が見つからず、未知との戦いが続いている。我が国政府も「緊急事態宣言」を発し、国民が自らうつらないようにし、周りの人にうつさないようにするため、他の人との接触の機会を少なくし、密接を避けるよう呼びかけられ、社会生活に制約を求めながら、パンデミック防止に取り組んだ。結果、多くの人の移動がある5月のゴールデンウィークの危機感を何とか乗り越え、5月25日には宣言の解除にも至り、国民にも一定の安ど感は得られたものと思う。

 他の先進諸国と比べても、感染者の数や死者の数でも我が国は取り組みが評価できる対処状況にあると思う。だが、一方では社会経済の疲弊も大きく、この落ち込みも止めなければならない大きな課題が同時に進行している。
 
 第2波・第3波を想定の上、コロナ禍の防止の手を緩めず、さらに医療的対応体制や設備の充実はもとより、過去にも経験のないほどの経済や国民生活の窮状を脱するための対策に、政府も国債の発行制限を解除しても取り組むべく、予算措置もされるようだ。

 確かに国家の存亡がかかるような問題ではあるが、無制限・無秩序な対策であってはならない。そのつけは必ず後世の負担として残るものだ。したがって、秩序や効率が後世のために生きてくる、新しい社会システムにつながる、すなわち第4次イノベーション改革に発展する土壌を生み、芽を育て、この機に「災いを福に転じる」取り組みをぜひ期待したい。

 インターネットの普及や技術が進んでいると思っていたのだが、あらゆる面で機能が未熟なことが露呈もしている。インターネット、スマートフォンの普及でホームページ・オンライン・テレワーク・〇〇〇・・とカタカナ言葉で先進化したかの如く酔わされているのだが、実態としては個人情報の保護の壁で慎重すぎるのか、期待する用途の活用が他国に比してもどれほども進んでいないことが明らかだ。
 
 5G革命ともいわれるが、この機会にこれらを有効に機能させて効率の良い、無駄のない社会構造を作るべきと思う。ただし、機械人間を作るのではなく、人間としての価値観を失わず、豊かな感性を育てる環境に重点配慮を置いた普及であってほしものだが・・・。

子供たちを健やかに育てる環境を取り戻そう。

 さてもう一つの大きい課題は、学校もコロナ禍に巻き込まれ卒業式も入学式も心に残るけじめとしての行事が、簡素化・縮小された。本来、思い出として心に残ったり、心を育んだりする機会が今年は行われず、授業も部活など課外活動も数か月行われていないのだが、子供たちにとってこの大きなブランクをどう取り戻すかも大きな課題である。

 三蜜を避け、ぬくもりが肌に伝わりにくい環境の中に置かれ、不安とストレスが積もっていることだろう。

 日本中が純真な戦いの渦に巻き込まれる、全国高等学校野球選手権大会が春、夏とも中止となった。夢にチャレンジの思いを込めて日々頑張ってきた人たちに、慰めようもないが、彼らを評価できる場の取り組みを考えてあげなければなるまいと思う。

 オリンピックの開催という大きな課題もあるのだが、知・徳・体・食をバランスよく育む環境整備に、未来を支える人材教育にも大きな力を入れよう。

 今こそ「ワンチーム」の精神が求められている。誇りある国「日本」をみんなで守ろう。政治家のパフォーマンスに終始左右される国であってはならない。

 

いまの教育に思う
    ~人づくりは四育の立て直しから

月刊『致知」2020.6月号【巻頭の言葉】より引用 
アサヒビール社友  福地茂雄

『急落した日本の子供の読解力』

  昨年十二月四日、新聞各紙は国際学力調査の結果を一面トップで報じました。
日本の子供たちの「読解力」が急落していることが判明したのです。アジア諸国の学力が上昇する中で、我が国だけがランクダウンを喫しているこの状況に、私は強い危機感を抱きました。

 教育は、知育・徳育・体育・食育の四育から成り立つものであり、私たちはそれらを学校で、地域社会で、あるいは家庭で教えられ、学んできました。しかしいま、四育それぞれについて何かしら物足りなさを感じているのは、私だけでしょうか。日本の教育の現状について思うところを、順番に記していきたいと思います。

 まず知育です。ひとづくりは喫緊の重要課題といわれながら、事実は言葉と逆行していないでしょうか。

 義務教育の週五日制は論外です。年末と年始の休日に始まり、春休み、夏休みと、既にたくさんの休みがあります。例えば教員だけは土曜休日とし、その日は定年退職した旧教員に担当してもらうといったやり方もあると思います。

 大学教育での理系、文系の区分は明治の遺物に他なりません。多様性が進む中、いまは環境科学のように文理いずれにも属する科目も数多くあります。

 かつての大学では四年間きっちり勉強できましたが、昨今は就職活動に多くの時間が費やされ、実際の教育は二、三年というのが実情です。また、国立大学での国費負担は毎年減少の一途を辿り、そのしわ寄せは教授陣の減少、とりわけリベラルアーツ担当の教授陣の不足を招いているのではないでしょうか。

 リベラルアーツ一般的に哲学、心理学、美学などの教養科目といわれますが、文系、理系に囚われることなく、幅広い知識を得て判断力を養うことに繋がる学問だと思います。国際人となるためには、自分の国の文化や歴史を語れることに加え、幅広い教養が求められます。

 また、人間は子供の時のほうが記憶力がよいとされています。意味は分からずとも『論語』を記憶させると大人になっても忘れないものです。成長段階では、記憶力を生かして大切な教養を身につけ、長ずるに従ってAIを使いこなせる判断力を養う教育も求められます。

 世界水準と比較しても、いまの日本の教育には改善すべき点が多く、このままでは、知育の後退もやむなしという状況にあるといわざるを得ません。

『健全な思考と健全な肉体を育む』

 次に徳育です。それは挨拶に始まり挨拶に終わる、感謝に始まり感謝に終わるもの、といっても過言ではありません。

 しかしながらこの頃、電車やバスの優先席で狸寝入りを決め込んでいる者、スマホに見入っている者などを見る時、昔からいわれてきた日本人の美徳という言葉に虚しさを感じるのは私だけではないでしょう。いまの教育で最も遅れているのは徳育です。

 三つめの体育は、学校教育だけでなく、生涯学習といえます。確かに日本人の伸長は伸び、脚も長くなり、体重も増えてきました。しかし、昔に比べて体力は減退しているのではないでしょうか。

 そして食育。母乳に始まり、味噌汁や煮付けの味、栄養バランスを考えた家庭の食育、学校教育による食育を行っても、いまは飲食店、ファストフード、コンビニエンスストア等々、一歩外は出ればいくらでも美味なものを楽しめる環境にあります。そのため、母親が一所懸命に調理を工夫し、子供の嫌いな食材を食べさせる例は少なくなっています。このことは、女性の社会進出とも無関係ではないでしょうが、いずれにしても食育は、体格や体力を養う体育とも密接な関係があります。

 子供たちの健全な思考と健全な肉体を育むことは、日本の未来に向けた最重要課題です。そしてその軸となるのが、四育なのです。私たちは、四育の重要性を改めて認識しなければなりません。

 子供たちの健全な思考と健全な肉体を育むことは、日本の未来に向けた最重要課題です。そしてその軸となるのが、知育・徳育・体育・食育の四育なのです。