民主国家の品位の成熟度が問われる!(2021/9/1)

コロナ禍の解決の見通しも立たない。このままでいいのだろうか?
衆議院議員選挙も控えて、私たちが一人一人の行動・考えが、この国の未来を決めるとの自覚ある行動をしよう。

 コロナウイルスとの戦いは、ウイルスの方が生き残りをかけて変異し、感染力を強めて人間に挑んでいる。人間はこれに対し、とりあえず科学的にワクチンで抑え込んで、新薬の開発を急いでいる状況だが、未知との戦い故に効果は後追いにならざるを得ない。

 嘗て約100年前にスペイン風邪が第1次世界大戦のさなかに世界中にまん延し、世界人口の約30%が感染、約4000万人もの死者が出て、一定の制圧までに4年余りかかったと言われる経験がある。日本でも2300万人が感染、約38万人が死亡したと言われている。
 
 自然大災害や、残念ながら戦争も大きく分類して漠として100年に1度の変革異変の節目が歴史の上にもみられている。今、何かその節目の波動に乗りかかっているのではないかとも思える。

 人類はその苦難の歴史を乗り越えて、グローバリーゼーションを加速して未来を切り開き、制圧力を得て乗り越え発展してきたのだ。その効果を生む力は、信頼と連帯によるものだった。いま私たちは人類の生き残りをかけて、難と戦いそこから生まれる新しいエネルギーで、未来を切り開く新しいエネルギーの創造を生み出さねばならない。そのためにはみんなで協力が必要だ。

 オリンピックやパラリンピックも開催されたのであるが、こんな時に開催をすべきか?やめるべきか?小心な議論があったが、長い歴史になかでも行事としては小さなことではあるが、スポーツが生み出す闘争のエネルギーや、それを乗り越える団結力すなわちルールが生み出す協力と連帯感が平和思想の源であると大勢の評価によって、実行され結果が評価され、次への新しい取り組みも加えながら引き継がれてゆくものだ。

 「一寸の虫にも五分の魂が宿る」とか、「小異を捨てて大同につく」ともよく言われるが、決して小さな意見を無視してはならないし、自由は尊重されなければならないが、それを重視するあまり大きな心が蝕まれ、やがて全体を蝕んでしまうことに繋いではならない。一人一人が解決策を求めるためのルールに元ずく協力という義務を果たさなければならない。

 国内では正に「共産党」「立憲民主党」やがては「国民民主党」が、野合して目先の政権批判で、専門的なことはよくわからない国民に、耳触りの良い野次馬的発言・縁日の街頭で物を買わんかな!の論調で、被害心をあおり、世相を混乱させるための闘争に引き込んでいる。それが諸外国から我が国の評価を著しく下げ、国益を損なっていることに無頓着な今の国政の有りようでいいのか?と危惧する。

 政府・与党も腰の引けたような議論に引き回されず、しっかりと国民や国益を守る姿勢を貫く政党であってほしいものだ。また、マスコミも国益と主権を守ることは何なのかをしっかりとわきまえた、良識を発揮する手段を講じてもらいたいものだ。

 現在の世相・風潮を見るに、まさに小異(小意)な議論に振り回され、未来への大きな進路へ結ぶ道さえ蝕まれているように思えてならない。正に、正常な民主国家を維持できるかどうかの瀬戸際に、次の選挙は立つ決断が国民に問われる選挙になると思うところだ。

 今度の国政選挙(衆議院議員選挙)は、我が国が世界から今後評価される選挙になるだろう。我が愛媛第3選挙区では、地方自立への政策予算が得られるためにパイプと成れる議員を送り出そう。

 私たちは、地方自治や既に国政与党議員として、豊富な経験を持つ議員を望んでいる。また、知事や地元の各市長さんも一緒に取り組み、信頼できる議員を送り出しましょう。

 選挙のたびに所属政党変節し、選挙民への約束(契約)を無視して欺く、理念なき現職の議員候補者を選ぶことは、この地域の政治意識の低さを問われるものであります。何の役にも立たないことを心得て、目先の選挙目当てなことばかりに行動する野合の議員は、わが地方には不必要です。

 これからも地方自治の主体者として、責任ある投票行動を共に致しましょう。

日の丸と君が代

月刊『致知」2021.9月号【巻頭の言葉】より引用 
アサヒビール社友 福地茂雄

『日本の国柄を象徴する日の丸』

 ♪白地に赤く 日の丸染めて
  ああ美しい 日本の旗は

 小学唱歌でもお馴染みの日の丸の国旗は、別名「日章旗」と呼ばれます。
 太平洋に朝日を迎え、日本海に夕日を送る我が国にとって、太陽をモチーフにしたシンプルで美しい図柄は、日本の国柄を見事に象徴しており、神代の昔から使われてきたとも伝えられています。

 太陽を象った丸は、古くは扇や船印に用いられ、江戸幕府のご城米の運送に際し、必ず船尾に日の丸の幟を立てて幕府のご廻船であることを示しました。かねて八幡船や家紋にも用いられていました。1854年(安政元年)に江戸幕府が日本の船はこの幟とすることを定めたといいます。

 国旗としての規定はありませんでしたが、1870年(明治三年)に太政官布告により商船旗として指定されて以来、縦は横の三分の二、日の丸の直径は旗の縦の五分の三が慣例となりました。そして、1999年(平成十一年)施行の国旗国歌法により、日の丸はようやく国旗として定まったのです。

 一戸建て住まいが減少し、マンション住まいが増えた都会で、祝日に国旗を掲げる家庭が少なくなってきたのは寂しいものです。

 私たちは日本人として、スポーツの祭典が催される時ばかりでなく、常日頃から国旗を大切にしなければなりません。東京は吾妻橋のアサヒグループホールディングスの本社ビルでは、毎朝6時から毎夕18時まで国旗と社旗を掲揚しています。

『「君が代」は日本人の心の詩』

  国旗日の丸と共に、国歌『君が代』は、この上なく美しい日本国民の心の詩です。
 ♪君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
『古今和歌集』に収録された詠み人知らずの歌が出典とされていますが、もともとは「君が代」ではなく「我が君」と読まれたいたといいます。いずれにせよ、天皇の治世を祝う歌なのです。
 
 作曲は宮内庁の楽人・林廣守によるもので、1893年(明治26年)に文部省により祝日大祭日唱歌に制定されたと百科事典に紹介されています。皇紀2681年、西暦より660年永い歴史を持つ我が国に相応しい国歌だと思います。

 スポーツの国際試合では、はじめに必ず国歌の斉唱が行われます。いずれの国の選手も、胸に手を当てて誇らしげに自国の国家を口ずさむ姿がそこにあります。『星条旗よ永遠なれ』(アメリカ)も『ラ・マルセイエーズ』(フランス)も優れた国歌ですが、荘厳さにおいては『君が代』の右に出る国歌はないと感じます。

 折からのコロナ禍で、東京オリンピックは残念ながら、ほとんどの会場において無観客で開催されることに決まりました。晴れの日を目指して心身を鍛え抜いてきた代表選手たちの心根が思いやられます。

 荘厳さ溢れる日本の国歌は、私たち日本人の心を打つ名曲です。新装成った国立競技場で厳かな『君が代』の演奏を聴きながら、掲揚台に翩翻と翻る日の丸の国旗を見上げる選手の姿を想像する時、私は改めて日本人としての誇りを感じるのです。

 私たちは日本人として、スポーツの祭典が催される時ばかりでなく、常日頃から国旗を大切にしなければなりません。