コロナ感染拡大とまらず第5波(2021/8/1)

コロナ禍を何としても封じ込め、収束させよう

 コロナウイルスとの戦いが終わりを見せず続いている。オリンピックの開会前に、夏休みや盆休みなども視野に入れ、必要な地域へ4度目の「緊急事態宣言」や「まん延防止等重点措置」が実施された。

 一方ではワクチンの接種も呼びかけ推進している。しかし、ウイルスの方も変容して感染力が強くなり、自粛疲れやマンネリ化で感染防止措置が軽視されてきたのか、若い世代を中心に、感染が広まり第5波と言われる状況となっている。しかも過去最大の山波を引き起こしている状況だ。愛媛県でも第5波と言えるクラスターによる感染が、連日2桁で報告され拡大中である。

 これ以上続けばまさしく「医療崩壊」で、他の病気治療の患者に手が回らなくなり、国民の健康・生命の維持に大打撃をもたらすことになるだろう。

 何としてもコロナウイルスを封じ込めなければならない。お願いが通用しないのなら、強制力を発揮できる法の措置も考えなければならないのだろうか。まさしく国民の国家・社会に対する規範モラルが問われてもいるのだろう。

 今の自由や安全・安心の生活を守るための責任は、自らの責任ある決意と行動から生まれるものです。コロナ禍での対応は、温かみのある人の心がつながる社会の有りように、大きな変化を起こしています。まずは人間的な心の通う血脈をしっかりこれからも守ってゆく社会を守りましょう。

成果を残す「2020東京オリンピック・パラリンピック」

 7月23日から始まった2020東京オリンピック大会。すべての競技の中から、柔道男子60キロ級で最も早い金メダルを「高藤直寿(28)」選手が獲得。

 この大会では33競技・339種目に11090人の選手が参加して競われます。前回のリオデジャネイロ大会では28種目でしたが、「野球・ソフトボール」が復活、「空手」・「スケートボード」・「スポーツクライミング」・「サーフィン」が加えられています。

 ソフトボールは「上野投手」が40歳となっても健在で活躍、またしてもアメリカを倒して金メダルを獲得。新しい競技の「スケートボード」では13歳の女子「西矢椛」さんが、金メダルの快挙も成し遂げている。

 テレビでの応援となっているが、日本選手の活躍はやはり感動を呼び起こしてくれ勇気も起こしてくれる。いろいろなドラマがみられ感動だ。開会式もいろいろ言われたが、「王・長嶋・松井」さんの、聖火リレー・最後の聖火台への点燈者には「大坂なおみ」さんの、起用も感動ものであった。

 コロナ騒動の中で、運営に携わる皆さんにも厳しい対応やこれまでとは違った新しい取り組みが求められ、大変なご心労の中にあっても結果が出ているし、感動が残されている。

 マスコミも批判報道で世論を誘導するようなことも見られたが、結局競って競技の報道で、人々に感動を与える役割を果たされたのだ。みんなで落ち込みの穴を掘るのではなく、高みを目指して励ましあい協力することに感動が残るのだ。肝に銘じよう。

パラリンピックでも応援し、障害を越えて得る感動を分かち合おう。

 今年もコロナ禍の渦中にあって、お盆・夏休みに、家族や親族・友人などの、心身ともにゆったりできる時間が持ちにくいと思われます。

 電話でもリモートでもよい、互いの声を伝え、仏様には心で結ばれる時間を持ちましょう。

 家族って何だろう、ご先祖さまって何だろう、友達って何だろう。如何すれば繋がるのだろう。ゆっくり考えてもみよう。

地域の伝統と共に生きる

月刊『致知」2021.8月号【巻頭の言葉】より引用 
茶道裏千家前家元 千 玄室

『神道と共にあり続けた日本の宗教』

  多くの日本人は、確固たる宗教を持っていないと言われる。普段の会話で政治の話と宗教の話はあまりされないが、もし海外の人に聞かれたら特に信仰を持っていない場合、「仏教」と答えるのが無難なようである。

 『古事記』を読むと分かるが、日本は神々がつくられた国とされている。様々なところに神はおわすし、我われを守ってくれる存在と認識され、敬われてきた。そして、神に代わって天皇の成したことを記されているのは『日本書紀』である。

 五三八年に仏教が伝来し、一五四九年にはイエズス会のフランシスコ・ザビエルによりキリスト教が日本にもたらされたが、他の国々と日本が違うところは、それらが神道と共にあり続けた点であろう。

 もちろん、いまはイスラム教をはじめ様々な宗教があり、それに対する敬虔なる信者も多くおられる。だが先に書いたように、多くの日本人は年末十二月二十四日や二十五日にはクリスマス楽しみ祝い、三十一日の大晦日には寺で除夜の鐘をつき、一夜明けた新年一日には神社へ初詣をする。はたまた、受験シーズンになれば各地の天満宮へ合格祈願にお参りする。

 童歌の「とおりゃんせ」の歌詞にも「この子の七つのお祝いにお礼を納めに参ります」と歌われているように、子供が誕生するとお宮参りをし、関東地方に多いしきたりだが七五三も行われている。京都では十三参りといって、学を授けていただくお参りがある。それらのお参りも昔と違い寺でも神社でもなされているし、その行いに違和感を持たず暮らしているのが大方であろう。

『新政権の政策がもたらした宗教論争』

  江戸時代にはすべての人が檀那寺に属していた。いまでいう戸籍の役割をなしており、死んで「過去帳」と呼ばれるものに記載されるまでのその人の一生が分かるようになっていた。引っ越しをする時にも、その旨を次の檀那寺に引き継がなくてはならなかった。神社にお祀りして神様を信仰し拝んでも、葬式は寺でしか出せなかったものだ。このようなところは日本では昔からしっかりと管理されていた。

 いわゆる神仏習合も多く、お寺と神社が一体であることも普通にあった。いまでも稲荷神社や五部権現などが寺院に祀られているところも多く、京都にいる時は毎朝お参りをする本法寺にも鳥居があり、大摩利支天が祀られている。

 しかし、明治元年に薩長新政権による思想政策で「廃仏毀釈」が行われた。いわゆる神道国教化政策である。「神仏分離令」を出して仏教を弾圧し、仏教施設への無差別な攻撃がなされた。いま、世界で騒がれている宗教弾圧の日本版であり、国宝級の仏像が壊され、僧侶の還俗を強要するなど、現在世界各地で行われていることと同じに思われる。その結果、当然のように廃仏反対運動が起こり政府としても廃仏毀釈は朝廷の望むところではないと事を収めようとした。

 このことがいまだに根強く尾を引いているわけではないであろうが、宗教上の論争になっている場所がある。そこは私と共に先の大戦を戦い、散っていった同期が祀られている靖国神社である。

 毎年父の代から秋に献茶を致し、一盌の御茶を奉じ、その眠りの安らかなると共に世の和らぎを念じているが、この神社自体を容認できないという方々がおられる。戦犯が合祀されているからとの理由ではなく、宗教として容認できかねるようだ。私も特攻隊隊員であったから、特攻出撃して行く時に「靖國で待っているぞ」と出ていった皆の顔が目に浮かび、ただただ同期が眠る場所との認識でお参りしているのだ。

『地域の信仰や思想が与えてくれるもの』

 さて、檀那寺制度がなくなったために、明治政府は国民に対して在郷の神社の氏子となることを義務づける氏子調べという政策を打ち出したが、明治四年から僅か二年という短い期間で終わっている。

 そもそも京都に生まれ育った私から見れば、生まれたその地域の氏子になるのは当然のことである。ご承知のように、京都には、数多くの神社仏閣がある。辻毎に何らかのお社があり、また町内安全子孫繁栄の御地蔵様が祀られている。生かしていただくありがたさは、当然氏神様に護られているからだと感謝する。

 日本は、それぞれの地域によって特有な信仰や思想がある。それらが神話の域を出なかろうと、日本は神がつくりたもうた国である、と考えることで何か気持ちが和むように思えるのだ。

 日本は神がつくりたもうた国である、と考えることで何か気持ちが和むように思えるのだ