爽やかな秋風が吹いてほしい。(2010/10/1)

誰がこの国を守るのだろう。私達の命(生活)はどうなるのだろう?!

どこからとも無く祭囃子の太鼓が聞こえ始めた。田畑も色ずき収穫も真っ盛りとなるが、今年の異常気象の暑さは、農作物にもかなりの打撃を与えているようだ。

民主党の党首選挙も終え、「菅総理」の続投が決まり、3ヶ月で内閣の顔をころころ変えては・・・との声に推されて続投となったのに内閣改造で、主要な顔ぶれが替りまたしばらくは実働しない足踏みが続いている。
円高が進行し、政府単独介入をしたものの焼け石に水。

沖縄県の尖閣諸島海域で操業していた中国の漁船に、海上保安庁の巡視船が体当たりされ船長を逮捕したが、中国から猛抗議や、経済制裁の圧力をかけられ、領土侵犯をされながら逆に釈放の圧力に屈し、挙句には賠償まで求められる始末で、外交の無能力を天下に示しているような状況で、全くこの国が危ういと感じざるを得ない。
正義を守る楯となるべき検察が、あらかじめ描いたストーリーで、証拠資料まで改ざんして事件を捻じ曲げる事態も発覚したが、一体この国では、何を信じ、誰を信じて生きていけばよいのだろうと、空しささえ感じる。

何より日本経済は回復どころか深刻な事態に至り、首が閉まるのではないかと思われる。
一体この閉塞状況を打開するのは、誰の力によるのだろう、いわずもがな政府の責任である。政治も行政も司法も責任を擦り合っていている場合ではない、一丸となってこの国を建て直し、国民を守らなければならない。

五穀豊穣・国家の平安を祈ろう!

10月は各地で五穀豊穣・家内安全・国家の平安を願う日本の歴史的伝統宗教行事として、鎮守の祭りがある。
祭りといえば、最近はイベントと同様に扱われ観光資源にと利用される面もあるが、ともかく地域に民衆が集い協力して、地域を支え発展させる原動力としての機会としての意義があるべきであり、その場が良ければよいのではなく、物事の前も後も見定めて秩序ある社会の営みの学習の機会であってほしいものだ。
楽しくなければならない。楽しくなければ心にも残らない。楽しい祭りをしよう。

次の「愛媛県知事」は?「松山市長」は?誰が?

加戸愛媛県知事の任期満了前の辞任表明(11月30日辞任)を受け、11月には知事選挙が実施されることになるが、「中村時広」松山市長が立候補を決意表明、更に松山市長の辞任に伴い、松山市長選挙も実施される(同時)見通しとなってきた。

松山市は県都であり最大の人口を有する町なので、おのずと県下に及ぼす影響力は大きい、だがそれが全て愛媛を代表するものでもない。ここを間違えないで捉えなければならない。
県知事選挙に自民党としては候補者を公募してみたものの擁立ができなかった。
地方自立が求められる時代に、地方の首長選挙に政党が前面で候補者を擁立して選挙民の理解が得られるか?もろもろの議論や検討の結果としても、自民党県連としては全面的にバックアップする候補者の選定は見送らざるを得ない状況で、嘗て自民党国会議員などは対立して戦った相手ではあるが、中村候補をあえて推薦し、総力を結集して新しい愛媛を築こうとの道を選ぶことになった。
だがこの選挙は、ダブル選挙が吉となるか凶となるか、非常に混沌とした選挙戦となるように思えてならない。なぜならみんなスッキリハッキリした気持ちで選挙に向っていない。何かの思惑ばかりが語られそうな気配である。

選挙は堂々と政策を示し、それを責任を持って実行する信頼関係の構築こそ大事だ。
1っヶ月余りの日にちしかない、早く候補者も決定して活動しないと、市民にも判断基準もなくなる。

大学の道
      =大人の学、すなわち人によい影響を及ぼす人物となるための教え=

月刊誌「致知」の《巻頭の言葉》より抜粋引用=論語普及会学監  伊与田 覚

『根を養うことの大切さ』

孔子の弟子である曾子が著した『大学』は、すなわち人によい影響を及ぼす人物となるための教えを記したものであり、人間学を学ぶには最も手近な古典です。
その冒頭は、『大学』の三綱領といわれる有名な一文から始まります。
「大学の道は明徳を明らかにするに在り。民に親しむに在り。至善に止まるに在り」
最初の「明徳を明らかにする」は、三綱領の一番の根幹です。
  人間には、生まれながらにして徳性が授けられており、素直な心でこの天から与えられている徳性を発揮していくことが大切だということです。
  徳には見える徳と、見えない徳があります。木の根は地中にあって直接見ることはできませんが、非常に大きな役割を持っており、その動きによって、幹や枝や葉や花が表に現れます。見えないところで大きな動きをしている徳を玄徳といい、表に現れた徳を明徳と言います。ですから人間も、りっぱに成長していくためにはまず根をしっかりと養わなくてはなりません。明徳の裏には常に玄徳があることを認識しておくことが大切です。
  しかしながら、人間の明徳にはしばしば「我」という霧や、「私」という雲がかかります。我や私を少しでも薄くしていくよう努めて、太陽がはっきり見えてくるように明徳を明らかにしていかなければなりません。
二番目の「民に親しむ」は何を意味するか。『書経』には、「政治というものは赤ん坊を育てるようなもので、一心にこれを求めたならピントを大きく外すことはないだろう」とあります。「民に親しむ」とは、殿様になれば、自分の直属の家来だけではなく、一般の民に対しても親しみ、つまり一体感を感じなくてはいけないということ。そして、明徳が明らかになると、世の上に立つ者は、直接関係のないところまで一体感を感じて処置をしていくことです。したがって、明徳を明らかにすることと、民に親しむことは、別々のものではなく一つのものです。

『利から義へ』

「至善に止まる」の善は、私たちが普通に使っている善とは次元の異なるものです。
  普通は善悪を自分の利を中心に考えており、自分に都合のいいことを善、都合の悪いことを悪と見なしています。これは相対の世界での捉え方です。これに対して至善とは、相対という対立する二つの世界を超えた、絶対的な一なる世界の善なのです。
  私は松下幸之助さんと、約五十年にわたって親しくお付き合いをさせていただきました。
  ある時、松下さんの講演を拝聴したところ、その内容がまるで『大学』のお話そのものであるように感じて驚きました。講演の後、「あなたはどこで『大学』を学ばれたのですか?」と伺うと、「私は小学校も卒業していませんから、そんな難しい本は読んだことはありません」とおっしゃったのです。
  あぁ、この人は天と交流し、天から直接聞いているのだ、と私は確信しました。学校もろく行かずにそこまで到達した松下さんに、私は心から敬意を抱いたものです。松下さんはもともと裕福な家に生まれましたが、父親が相場にしっぱいして破産し、一家は貧乏のどん底に突き落とされます。やむなく丁稚奉公に出て、苦労して独立を果たします。最初は、家を再興するという利によって事業をおこされたものとおもわれます。
  ところが松下さんは、会社が大きくなるにつれて、事業というのは自分の利益を追求するためにあるものだろうか、と悩むようになりました。懊悩の末、事業は社会公共のためにこそこなすべきだ、という結論を得ます。そして、この事業使命に目覚めた昭和7年5月5日を創業記念日としたのです。利から義への転換でした。
  ここを原点に、松下電器では後に、「七つの精神」が定められました。これは世界のどこに行っても通用する規範をもって会社運営に当たるためのものであり、まさに『大学』の説く「至善に止まる」の実践といえます。
  天地のルールを道理と言い、人のルールを義といいます。道理や義を無視して儲けに走るところから様々な問題が生じます。
至善に止まることを目指し、何事もまず道理や義にかなった行動を心がけることこそが、真の繁栄に通ずる道と信じます。