今度は上手く歩めるか?(2011/9/1)

民主党代表に「野田佳彦さん」が選ばれる。
政権交代し民主党政権になって、2年で3人目となる。

党内での権力闘争で国民は犠牲に。復興もままならず?

 ばら色のばら撒きマニュフェストで国民を欺き、政権交代は得たものの、政権運営の稚拙さと党内の権力闘争の明け暮れで、国民不在と言うか、国民無視と言うか、次々と総理大臣が先頭となって、国民に政治への信頼を全く失わせてしまった民主党だが、政権には震災復興を名文にしがみつき、2年で3人目の党の代表が、延長した臨時国会の最終日にむけ、5人が立候補し争い、決選投票の結果「野田佳彦」さんが代表となり、次期総裁に就任した。

 小沢・反小沢の勢力対抗闘争が、これまで以上に一層激しく反映されたようだ。
他党のことながら、日本政府を司る話なので言わせていただきたい。選挙が終ればノーサイドなどときれいごとを言っているが、菅さんも同じことを言っていたのに、益々溝が深くなったのだ。本当にいい加減にしてほしい。

 国会議員の勢力権力闘争に、何時までたっても主権者でありながら、ほって置かれている国民よ立ち上がろう。もうこれ以上は許せない。
災害・円高と嘗て無い国難の状況にあるので、本来、一番に政治が機能しなければならない状況にある。

 国の根幹を築く事は、与党も野党もない、日本人なら一丸となって取り組まねばなるまい。潔さもなくなったこの国の将来は無い。もう一度日本人の心を呼び戻そう。この基本を互いにもう一度確認が必要だ。

 それにしても鳩山の坊ちゃん総理もひどかったが、菅直人総理は最も、最後まで国民を傷つけた人だった。野田さん普通の良識を発揮してください、お願いしますよ。
健全な野党(自民党も含め)も今こそ、国民の信頼回復に全力を挙げてほしいものだ。

天を恨まず、苦に耐え、明日に向かって働く

月刊誌「致知」の《巻頭の言葉》より抜粋引用=ウシオ電機会長 牛尾治朗

『わずか5年で、過去20年に匹敵する変化』

 3月の大震災の前後で、日本の置かれた状況は一変しました。かねてより私は、21世紀型社会というものは20世紀型社会とまったく異質であることを主張してきましたが、日本はなかなか変化の波に乗り切れないでいました。しかしながらこの震災によって、いよいよその現実を目の前に突きつけられ、否(いや)が応でも変わらざるを得なくなりました。

 新しい世界の趨勢(すうせい)として一つ言えることは、経済成長の限界が見えてきたことです。最近の世論調査では、消費者がなによりも安全と安心を重視しており、それが損なわれるような成長を敬遠する傾向がはっきりと表れています。今回の大震災でこの傾向はさらに強まり、経営者は、厳しく、先の読めない状況下での舵(かじ)取りを余儀なくされることになります。

 しかもIT化によって変化のスピードに一層拍車がかかり、今後5年でかつての経済成長期の20年分にも匹敵する変化が訪れると予想されています。またITは組織のあり方も一変させます。かつては地位の高い人ほど情報量も多く、情報の格差によって権力が保たれていました。ところが、ITで誰もが自由に情報にアクセスできるようになり、これまでの権力構造は過去のものとなりました。

 私はたまに分からないことがあると女子高に通う16歳の孫に尋ねるのですが、インターネットにアクセスしてたちどころに答えを見つけ出してくれます。21世紀型社会とは、こうした驚くべき変化を既に我々にもたらしているのです。

『ますます求められる トップの力量』

 こういう新しい状況下で存在感を発揮するリーダーは、どんな人でしょうか。それは、社員からぜひこの人と働きたいと思われるような人だと私は考えます。

 戦後、日本企業の多くは従業員の考えを尊重し、経営者と従業員とが一体になって成長を遂げてきました。経営トップは役員の中では執行業務を統括する立場であるとともに、集団の長として四六時中従業員のことを考えています。一方従業員も、あたかも自分たちが経営者のごとく会社のことを論じ、酒の席ではトップ人事の話題で盛り上がります。

 かつてピーター・ドラッカーさんにお会いした時、日本のこうした従業員尊重の経営を同表現すべきかと問われ、「ヒューマン・キャピタリズム(従業員資本主義)と答えたところ、我が意を得たりと共感してくれました。日本の企業は、ヒューマン・キャピタリズムという人間集団論理と、株式会社という組織機能を見事に両立させてきたのです。そしてヒューマン・キャピタリズムは、IT化で従業員が上層部と同じように情報を持つようになることで一層その傾向を強めます。

 ウシオ電機を創業した時、私は設立趣旨の一番最初に「会社の繁栄と社員一人ひとりの人生の充実を一致させること」と掲げました。幸せに対する価値観は一人ひとり異なります。ウシオ電機の社員はこうあれというのではなく期待する社員像に近づけばよいというのが私の考えです。期待される社員像が社長好みの一種類だけでは、多様化する社会に対応できません。トップには、様々なタイプを受け入れられる度量が必要だと思います。

 一方で社員には、入社して5年もたてば何事も自分で判断できる人材になることを求めています。事が起こるたびに「どうしましょう」と上司を頼っていたのでは成長はありません。自主努力、自主判断力、自己責任の三つの“自”を身につけることを、会社で自分の意見を通す前提条件としているのです。

 こうした企業風土が定着するか否かは、トップの力量次第です。今後未知の世界を歩んでいく上では、非日常的な変化に即応できる判断力も問われてきます。判断を下すことを避け、意味もなく会議を繰り返していても道は開けません。難しい決断を行うからこそトップの存在意義というものがあるのです。

 今回の大震災は、決断の難しい時代に入った我々に、追い討ちをかけるような試練をもたらしました。しかし我々の先人は、自然を克服しようとする西洋文明と異なり、自然を受け入れ、たとえ災害で家を倒されても、天を恨むことなくその度に立ち上がってきました。

 天を恨まず、苦に耐え、そして明日に向かって働く。この心掛けをもとに、新しい時代を切り開いてゆきたいものです。