諸霊よ、安らかに。(2011/8/1)

3月11日の「東日本大震災」で被災され、未だ弔いもできていない諸霊や、私達の安寧のため犠牲になられた諸霊に、心からの感謝と、安らかなる昇天を祈ろう。

 東京電力福島第1原子力発電所の事故が、今もって収束の見通しが立たない。
「ストレステスト」の実施で原発の再稼動が制約され、電力需給バランスが崩れて産業活動や、市民生活に一層節電が求められ不便が強いられる。

 次から次へと発表される事態の結果は、益々悪くなるばかりで、東北の牛の肉の出荷制限も発せられているが、他の肉・野菜・魚と、これからも問題が表面化してくると予測され、日本列島まさに放射能汚染の泥沼へ沈む気配だ。

 どうか在天の御霊よ、一日も早く治まるよう見守ってください。諸霊に感謝の誠が捧げられていない不遜はどうかお許し下さい。

みんなでお盆にはしっかり供養しよう。そして身の周りの人間の諸悪行を反省しよう。

「収まらない政治不信」国民のための政治を蘇らせよう。

 災害復興をと、さも政府や国会は、国民のために寝食を忘れて頑張っているように聞こえるが、お盆までの約束だが、未だに被災者への支援金も万度に届かない、ガレキも撤去が十分でない、仮設住宅も建設されない、まだ避難所に何万人もが生活するこんな現実の閉塞状況を脱出させられない内閣で、しかも総理を辞めさせるための言い訳づくりが中心で、全く国民不在どころか無視の国会だ、国民のためになることは全く解決できていない。

 国会の無法な体たらくが地方にも及び、目先のパフーマンスで、世論を一点突破型の政治手法が囃されようとしているが、決して地方の自立を促す方向にはならないと危惧する。

いまこそ小異を捨てて大同団結し「がんばろう 日本」復興に取り組まなければならないのだ。

 東京・大阪・名古屋など大都市を中心として、地方都市も同じ視点で地方を捉えるのは暴挙に等しい。何より田舎は自立する財力も知力も薄いのだ。地方を滅ぼせば日本が滅ぶ。このような視点でこの夏はあらためて勉強を深めて見たいと思っている。

 こんな中、総理や民主党議員がやっぱり訳にわからぬ政治資金にまみれているようだ。
全く日本を守ろうなんて気持ちがさらさら無いのではないのかと感じる。

 説明責任さえ全く果たせない政党や政治家に、もう何かを託す事はやめよう。

残暑お見舞い申し上げます。ご自愛のほどを!

 7月は大きな台風被害も無く過ごす事ができた。8月も無災害であってほしいものだが、韓国・新潟・福島で7月末大雨の被害が発生、大きな傷を残した。自然災害は防げといっても無理な事だ、想定できる対策は行うべきであろうが、際限なくとも行かない。危険の余地と防御の行動規範は常に備えておこう。

 西条高校は代表になれずに残念だが、今治西高校野球部の甲子園での健闘を祈る。
 

獨を愼む
   
       =立派な人物というものは自分独りでいる時、
           つまり他人が見ていない時でも己をしっかり律していく。=

月刊誌「致知」の《巻頭の言葉》より抜粋引用=論語普及会学監 伊與田 覺

『人物になるための1番の基本』

  中国古典の『大学』に次の一節があります。
「所謂(いわゆる)其(そ)の意(こころばせ)を誠にすとは、 自(みずか)ら欺(あざむ)くなきなり」「意」とは意識のことであり、内なる心が表にも現れてきたものなのです。喜怒哀楽の感情も、実は内にあるものが何かの拍子に外に現れてきたものなのです。そして「其の意を誠にす」とは、意を正常にするということ。それは「自ら欺くなきなり」、つまり、自分で自分を欺かないということです。

 「忠」という字は中の心と書きますが、これは自分で自分を欺くことなく、常に全力投球で事に当たることを意味し、本来は、自分に向けるべきもの。
 
 「信」という字は、うそ偽りなく、自分が言ったことは必ず守ることを表す文字で、他人に対するもの。自分に対しては「忠」他人に対しては「信」いずれも「誠」ということだそうです。

 では、自分を欺くことなく、誠を貫いていける人間性を養っていくには、日頃からどのようなことを心掛ければよいでしょうか。『大学』は次のように説いています。

 「君子は、必ず其(そ)の獨(ひとり)を慎(つつし)むなり」立派な人物というものは自分独りでいる時、つまり他人が見ていない時でも己をしっかりと律していくという意味です。『大学』ではこの「慎獨(しんどく)」を非常に重視し、人物になるための一番の基本としています。

『獄中でも己を磨き続けた吉田松陰』

 慎獨の大切さを理解するため、さらに『大学』を紐解いてゆきましょう。
「小人閑居して不善を為し、至らざる所無し」
小人とはつまらない人、ここでは普通の人といってもいいでしょう。要するにほとんどの人は、暇があってゆっくりしているとろくなことをしでかさないということです。
例えば定年を迎えれば、 それまで自分を束縛していたものから解放され、毎日が日曜日となります。
 しかし、慎獨に努め、自分をさらに練り上げていこうという人はよほどの人物といえるでしょう。

 獄中での日々はある意味、間居の究極ともいえます。それが独房ともなれば、狭いところに押し込められ、誰とも話をすることができず、ただじっとしていなくてはなりません。これは大変な苦痛であり、普通の人にはとても長く耐えられるものではありません。無性に人恋しくなり、なんでもいいから誰かと話したくなる。そこで少しでも優しい言葉をかけられたら、自分のやったことをついペラペラとしゃべってしまうわけです。

 そう考えていくと、獄中で朝から晩まで読書に励んだ吉田松陰の偉大さが実感できます。書を読む自由が許されていたとはいえ、獄中という場でさえ己を磨く努力を怠らなかった姿勢は見事です。

 その姿勢は牢番や、他の受刑者をも感化し、やがて松陰を中心に獄中で勉強会が始まります。俳句のよくできる者、書の達者な者など、それぞれが得意とすることを教えあうというもので、松陰はそこで『孟子』の講義を始めました。しばらくして自宅謹慎となり、牢を出ることになりましたが、この講義を途中でやめるのは惜しいということで、引き続き家族が聞き役となって松陰に講じさせました。有名な『講孟余話』はそのように出来上がったのです。

 しかしながら多くの人は、長く間居するとろくなことを考えないものです。世の娯楽は、そういう人がせめて何かに熱中し、よからぬことをしでかさないためにあるともいえます。真に優れた人物は、そういうものは必要としません。

 独りの時間に何をしているのか。自分を少しでも高めていくためにも、他人の見ていないところでも己を律し、より有意義な時を重ねてゆきたいものです。