まだまだ寒さがつのります(2012/2/1)

我慢するか?負担するか?
 国民に付けを廻せた責任はどこにあるのか?その究明も大事だ!

  今年の雪国での積雪は異常なようだ。昨年の地震・津波災害に追い討ちをかけて、疲れ果てているところに除雪の苦労も大変でしょうと、何ともいいようが無く、慰めの心ばかりだ。この困っている皆さんに、何とか平常生活を維持できている人達から、支援の手を差しのべることを、是非理解して協力を呼びかけるものである。

がんばろう 日本!

 さらに福島第1原発の事故はいまだ収束が困難を極めており、各地の原発の定期点検後の再稼動も、ストレステストなど厳しい条件をクリアーする状況にも無く、許可が出にくい状況で、四国電力では1月中に3つの、全ての炉が停止している。何とか四国電力の保有する発電機能のフル回転や、自家発電を持っている企業の対応などで、今のところ原発に頼らなくても、四国の電気需要量に対し四国電力では約2%は余力があるようで、計画停電などで企業生産や日常生活で制約が必要とまでは至らず、乗り切れているようである。

 しかし、全国的に見るとこのままで行くと4月には全原発が停止となり、都市部ではまた計画停電など、節電だけではすまない状況が生まれる事になりかねない。加えて、中東(イラン)情勢も怪しく、原油の高騰により採算性の悪い景況に追い討ちをかけ、電気料金の値上げで、一層雇用や生活に圧迫が迫られる。みんなで知恵を絞り、無駄をなくして節電に努め、混乱要因を少しでも回避する努力と協力が必要であろう。

我慢しよう 日本!

 このように国民は誰もが何とかしなければならない、と思い考えているのだが、果たしてその民意が国の政治に反映されているのだろうか?
おりしも国会が開かれていますが、相変わらず民主党がどうの、自民党がどうの、公明党がどうのと、揚げ足取りの発言や、選挙目当ての言動ばかりが目につきます。こんな体たらくのために国民が疲弊し、産業の空洞化や、経済のマイナススパイラルが続いているのに、何十年も前から分かっていながら先延ばしした国の財政バランスを、この最悪の事態の中で解決しようと、無駄が無いか?甘えは無いか?不要不急の解決は何か?など事業の見直しや、建て直しの策も検討せずして、さらに国民の理解も得ようともせず、増税以外に無いと、まさに「盗人に追いの銭とはこのことか?」無策に過ごしている国会の責任を棚上げに、国民に付け払いを迫っているような国会議論で、政治家が議論する姿は見えず、政治屋のペテン師集団のように映つってくるのは、残念でならない。こんな見方は渡し一人だろうか?
     

甘えるな、抱きつくな、国家公務員、国会議員も身を切れ腹を切れ命を賭けて天下国家を守れ!

 まだまだこのような、寒くもあり寂しくもある状況が続くのだが、何より若者に未来が拓けて来ない国や社会にしてはならない。
 折りしも2月は、成年式(元服)があり、建国記念の日(紀元節)が有るが、若者に 頑張れ!頑張れ! の掛け声があっても、大人が「頭の上から冷や水をぶっ掛けるは、足の上から踏みつける」などしておいて、これを跳ね除けてから頑張ら無ければならないのだから、若者も並大抵なことではない状況だ。
そんな事をわかって、この閉塞状況を切り抜ける議論の必要がある。
 その力の源泉は何と言っても、この旗の下に集まろう! 日本人としての魂を見直し、家族を愛し、地域を愛し、国を愛する心で、己を超えて支えあって行く精神だ。
国旗や国家に尊厳の心を持たない人間であってはならない。

これこそが 頑張ろう 日本の精神だ!

一隅を照らす ― 悪びれず ひるまず いつもほのかに照らして行きたい。

月刊誌「致知」の《巻頭の言葉》より抜粋引用=論語普及会学監 伊與田 覺

『径寸十枚 これ国宝に非ず』

中国の春秋時代、斉の威王と魏の恵王が偶然狩場で出会いました。恵王が威王に次のように語りかけました。

「私の国は小国ですが、他国にはない立派な宝物があります。直径一寸ほどの強い光を放つ珠で、車の前後およそ十二乗分までも照らすものが十枚あります。貴国はいかがですか。大国ですので、さぞかし立派な宝をたくさんお持ちでしょう」
威王は答えました。

「私の国にはそういうものはありません。しかし優れた家来が多くおります。有る者に南城の地を守らせたところ、南隣りの楚は恐れて攻め入ろうとしません。また有る者に高唐の地を守らせたところ、西隣りの趙人は東境の黄河で魚を取る事をしなくなりました。
こうした優れた家来たちが自分の持ち場で一隅を照らし、国を支えてくれています。これが私の宝です」 恵王はこれを聞いて大いに恥じ入ったといいます。

後にこの故事を僧侶に対する教育方針や規定などに活用したのが伝教大師(最澄)です。時の嵯峨天皇に上奏した『山家学生式』には次のように記されています。
「古人曰く、径寸十枚、これ国宝に非ず。一隅を照らす、これ則ち国宝なり、と」直径一寸もあるような珠十枚が国宝なのではなく、世の一隅に光を与え照らす者が国宝である。

こうした精神で育てられ、品格を備えた僧侶達が地方に下り、それぞれ周囲を照らしてゆく事によって天台宗は全国に広まっていったのです。

『一隅を照らすもので 私はありたい』

住友電工中興の英主と称えられた田中良雄と言う方がいます。生前、私も大変お世話になった方で、東大に在学中、人を救うべく線路に飛び込んで方足首を失われましたが、卒業後に住友本社総本店に入社され、住友電工や住友本社の経営に力を発揮されました。

 田中さんが綴られた「私の願い」という詩があります。
 
「一隅を照らすもので私はありたい 私の受け持つ一隅が どんなに小さいみじめな はかないものであっても 悪びれず ひるまず いつもほのかに 照らして行きたい」

 終戦後の困難な時代、田中さんはこうした願いを胸に住友本家を守り抜かれたのでした。この精神はまた住友電工の精神ともなり、全社員がこれを徹底するようになりました。

田中さんがお亡くなりになった後、ご本人直筆の表装されたこの詩が、ご自宅のタンスの中から出てきました。普段余り明かされることの無かった胸中を垣間見たご家族は、改めて深く感じ入ったそうです。私は奥様のご厚意でこの書幅を形見として譲り受けました。

「一隅を照らす」というと、ちっぽけな事と思われる方もあるかもしれません。しかし、自ら光り、周囲を照らす事には。甚だ深い意味があります。

地球は非常に大きいけれども自ら光っているのではなく、太陽の光を受けて光っています。太陽がその光を没すれば地球もまた光を失うのです。同様に、会社でどんな立派な役職を持っていても、それは会社という光に照らされて自らも光っている事を自覚しなければなりません。役職を失ったり、職場を離れたりした時、一個の人間に大した光もないことを痛感する人もいるでしょう。同時に、どれだけ周囲に影響を与えていたかは、その人が去ってから明らかになるというものです。

小なりといえども自ら光り、周囲に少しでも良い影響を及ぼしてゆけるよう、一隅を照らす人間を目指してゆきたいものです。