明けましておめでとう御座います(2013/1/1)

 謹賀新年 
清々しい新年をお迎えの事と思います。本年もよろしくお願いします。

 今年は癸巳(みずのとみ)の年、原理原則を基にものごとを考えれば前に進むが、筋道を間違えれば混乱や動乱が起こる。冬眠を終え、地上で新しく活動を始める巳は、従来の因習的生活に終わりを告げる。日本再興の年にしよう。

「日本を、取り戻す」責任と実行力のある政権を期待する。

 昨年末の12月4日に公示、16日に投票で実施された衆議院議員総選挙は、自民党の294議席獲得という圧勝であった。公明党と連立政権を組めば、325議席と安定過半数どころか、3分の2を上回り、憲法改正の提案も出来る絶対多数となった。
最後は数が頼りではあるが、数に溺れず、驕り強引な事をせず、慎重に国民の信頼と希望を裏切る事のない政権運営を期待するものだ。
この選挙結果は、勝手で、稚拙で、決まらない進まない民主党政権が、余にも国民の期待に応えるものではなかった故であり、政治への信頼回復も大きな課題となっている。

 まずは景気回復が第1に望まれる。アベノミクスに期待し、株価も上向きに反応している、円高デフレの脱却のきっかけを早く見つけ出してほしい。
外交関係もストップしたままだ、国家の主権はしっかり主張しながらも、防衛姿勢を強行にアピールせず、まずテーブルについて話し合いと、双方の得(徳)を追求しあうことに取り組もう。
アメリカ・中国・韓国・北朝鮮と我が国を取り巻く主要な諸外国も、指導者が選任された。我が国の政権も毎年に変わるのではなく、この機会のじっくりと外交に取り組み、互恵関係の向上を図る必要がある。今年がチャンスでもある。
もう待ったなしで、日本再興の年にしなければならない。皆で協力し、繁栄の道を開く事を誓い合って、新年の出発にしたい。

 愛媛県政は中村知事就任から2年を経て、折り返しの年となるが、県民力向上のための活力源を生みだそうと、先頭に立ってトップセールスにも奔走頑張っており、私たち議会も後押し協力しながら成果を求めたい。
私は治水と安全な県土づくり、海の生物の生息環境回復と港湾・海岸整備など、公約実現に力を注ぎたい。

 西条市も「青野勝」、市長となったが、かの民主党のように選挙戦で主張した事が、当選後、直ちに主張が180度転換する行動をとられたのであるが、今後、姿勢を混乱させないよう、政策がぶれて市民を惑わす事のない市政制運営を期待したい。

千代子はまだ生きています-戦争未亡人たちの生き抜いた年月-

月刊誌「致知」の《巻頭の言葉》より抜粋引用=アサヒビール名誉顧問 中條高徳

『突如届いた便り』

  暑かった平成24年の夏も終ろうとする頃、 分厚い包みが届いた。
 京都府綾部市の川北千代子さんからのものであった。
  お会いしたこともない方々から、 毎日のように講演の感動や、
 拙著の読後の喜びを伝えてくださる お手紙をたくさんいただくので、
 すぐにはどなたか思い出せなかった。
 お手紙を読むや、 この老いの身も心も電気ショックに 打たれたような衝撃を受けた。
 この世の出来事かと身をつねるほどの感動であった。

  筆者の早朝の靖国詣では数十年に及ぶ。
 若い頃、遊就館の「親子の像」の隣の 展示ショールームに飾られている
1通の遺言状に釘付けになった。「妻千代子へ」という、
 しっかりした筆跡の遺言状であった。
 18年12月1日とある。
 筆者はその1か月前の11月3日、 教育総監から陸軍士官学校合格の電報を受け、
 勇躍国家のために尽くせると身も心も燃えていた。
  遺言状はその頃のものである。
「兼テ軍人ノ妻トシテ
 嫁グ前ヨリ覚悟ナシ居リシコトト思フガ 
 決シテ取乱スコトナク 
 武勲ヲ喜ンデ呉ヨ 
 ヨク仕ヘテ呉タ事ヲ心ヨリ感謝シテイル 
 短イ期間デハアツタガ
 誰ヨリモ可愛イ妻トシテ暮シタ事ハ忘レナイ 
 飽ク迄川北家ニ踏止ツテ御両親ニ仕ヘテ呉レ」
 入隊前日認ム 川北偉夫
 数10年前のことであった。
 同年代の男としてこの遺言状に触れた瞬間、 涙が滂沱と流れた。
 筆者も結婚していただけに 男の気持ち、その切なさが痛いほど伝わってきた。
  国家の防人として出征する男の公の決意と
 新婚間もない可愛い妻との別離の切なさの間に立って、
「川北家に止まって両親に孝養を尽くせ」
 としか再婚拒否の意を伝えることが できなかった戦時下を思うと、
 戦争の罪深さと男の切なさが身に沁みる。
 筆者は幾度となくこの遺言状の前に 額ずいて涙を重ねてきた。
 なんとその千代子さんの手紙が届いたのだ。
「千代子は生きています。
 八十五歳で幸せに生きています」
 との嬉しい感動のお手紙であった。
  終戦後2年ほど経っての戦死公報とともに
 届けられた遺骨箱の中は空だったという。
 御主人の男兄弟は3人で、 ご主人の偉夫氏は長男、
 次男も比島(フィリピン)作戦で戦死。 三男氏が無事復員。
この三男氏が結婚し、
「千代子は川北家でいらない存在になりました。
 しかし再婚のお話もすべて断って 遺言状の夫の心を心として生きてきた
 千代子にとって別の途はありません」
 と川北家を去っても、なお川北姓を名乗り、 御主人の霊とともに生きる覚悟をした。
 血を分けた甥夫婦が、
「叔母ちゃんは楽しい結婚時代もほとんどなく、
 一生1人住まいなどあまりに可哀相だ」
 と一緒に住んでくれ、 その甥の子が孫の如く可愛く、
「とても幸せな千代子です」
 と手紙は結んであった。
 
 10月18日、靖国神社の秋季例大祭の朝8時半、
 千代子さんに
「これからご主人にご挨拶してきます」
 と電話したら、 千代子さんのお声が若々しく伝わってきた。 

『捧げし命のただに惜しまる』

  筆者の目下の大事は「英霊にこたえる会」の会長の役割である。
 初代会長は石田和外最高裁長官、 2代目は井本臺吉検事総長が
 お務めになった重い役割である。
 全国をその会合のため回ってみると、
 千代子さんの如き未亡人はほとんど90歳を越えた。
 お聞きしてみると、 最初は、
「なぜうちのお父ちゃんは張り切り過ぎて うちを忘れて戦死したんや」
 と公報に涙した瞬間は思ったが、 すぐ気を取り直し、
「私たち後に残る者たちのために
 死んでくれた日本一のお父ちゃんや」
 と切ない心を抑えて自分に言い聞かせてきた。
 その心の軌跡は、 戦争未亡人すべてに通ずるご体験のようだ。
 
 国益代表者たる総理大臣がわざわざ 靖国不参拝を公言することが、
 この戦争未亡人たちの心を いかに傷めているか想像を超える。
 その未亡人の一人が、
「かく醜き国になりぬれば捧げし命のただに惜しまる」
 と切なく詠んでいる。

 このような国に明日はない。