機運を挙げよう(2013/10/1)

2020年 東京オリンピック・パラリンピック 開催決定!!

 今回の、2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催招致活動は、見事であった。
スペインのマドリード、トルコのイスタンブールとの3つ巴の招致合戦で、国民的支持度と何より「原発事故による放射能対策」が、日本にとっては厳しい評価が予測されていた。
しかし、前回の活動の失敗を反省し、日頃からIOCの委員など関係者と接点を保ちながら、人間関係を深め、さらに最終のプレゼンテーションにも役割分担を明確にして、効果的アピールで、チームジャパンとして訴える力を発揮した。これまでの日本人的思考や行動方式をまるで転換して、堂々と訴えた事が評価を得られた何よりの要因だろう。

 民主党政権で国際的信頼を失いかけていたのだが、自民党政権に交代「安倍政権」となり、『日本を取り戻す』諸施策を実行、アベノミクス効果も相乗した結果の事だろう。
素直に喜ばない連中が、いろいろ批判をいってもいるが、再び世界各国に日本を評価してもらう機会をつくり、国益に繋ごうではないかと訴えたい。

 嘗て50年前の東京オリンピックは、ここまで日本を発展させた大きなきっかけを創ったではないか。成熟社会時代となり、未来へ目指すものは以前の時代とは違うが、大きく転換させる推進力となる要素は変わっていない。

さあ、まずは気分を高め、機運を高めよう!!必ず扉は開かれる

 2017年には、愛媛で「国体」が開催されるが、もういよいよ開催の諸準備を、日程を組んで具体化させなければならない時期が来ている。宿泊の受け入れも早く決めていこう。愛媛のみあげも考えよう。黙っていて、じっとしていては経済効果を呼び込めない。

スポーツは戦いとは言え、スポーツマンシップによる平和の祭典だ。

成功させよう。それが国や社会を発展させる力を生む。

 いよいよ季節も秋をとなり、万物が実を結ぶ。感謝の誠をこめて戴き、次への種とエネルギーを蓄えておこう。

竹に上下の節あり

月刊誌「致知」の《巻頭の言葉》より抜粋引用=アサヒビール名誉顧問  中條 高徳

『節に真剣に立ち向かっているか』

 月刊誌『致知』が「人間学」を天下に説き続けて35年を迎える。
めでたき哉。
活字離れで苦吟する業界にあって燦たる業績を続ける、偉なる哉。
そして「人間学」を説くことを忘れたが如き我が国に於いて有難き哉、と心から賛辞と感謝を贈りたい。
 思い起こせば世が昭和から平成に変わった頃のことであった。創業社長の法違反で編集長の藤尾氏が後継社長に選ばれた。
世間では、雑誌の編集長は特別な能力を持つが経営能力を持ち合わす人物は数少ないと言われてきた。
竹井前編集長の眼力は藤尾編集長の経営能力を見抜いていたのであろう。

 平成2年3月号、藤尾さんの求めで或る対談をした。
相手は筆者と陸軍士官学校の同期で共栄火災海上保険社長の行徳克己氏であった。『致知』の行事に出没するあの法師姿の行徳哲男先生の実兄なのである。
縁の不思議に驚く。まさに縁尋機妙である。
 その3年後『立志の経営』の上梓し、安岡正篤先生と深いご縁の住友電気工業の亀井正夫社長や住友生命の新井正明社長らのお導きによって『致知』とのご縁は深まっていった。
その致知の35周年。我が子の歳を数えて成長を喜ぶあの感動すら覚える。
「竹に上下の節あり」
禅の有名な訓である。竹は上下に節があってこそ竹たり得ているし、冬に雪が積もっても折れそうで折れないのは節があるからと、人生の節の大切さを説いた訓である。
ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に迫ってきたのは1853年、160年前のことであった。ほぼ500年続いた白人人種による有色人種の国々の植民地化の「東漸の波」が我が国に到達した大節であった。
この大きな節に屈服していたら明治近代国家は誕生しえなかったし、ましてや植民地戦争の最終戦たる日露戦争の我が国の勝利はなかっただろう。
その勝利から110年という大きな節が再来年やってくる。
しかしこの節目はこのような歴史的に重要な出来事である必要はない。

 今回のような企業の周年運動、古希の枕、子どもの誕生日、これらも全て大事な節目である。しかしいまの世の中がどれだけ節目を理解し、真剣に立ち向かっているか疑問である。
例えば、昨年は我が国の成立の元を語る神話であり歴史書である『古事記』編纂から1300年という大きな節目であった。
己がじし胸に手を当て、そのような大きな節目の『古事記』にどれだけ意を注いだか反省してほしい。

『節を越えて遂げたアサヒビールの復活』

  天下のハーバード大学が寡占の例に我がビール業界を取り上げ、たった4社の戦いでトップが6割を超えている場合は2位以下は絶対勝てぬと世界の秀才たちに説いていた。
 数年後やってくる昭和64年が我が社創業100年の大節であった。
奇しくも平成元年となった。
その大節目を目指してアサヒ再生を計り、応援してきてよかったと思われる会社に生まれ変わろうと堅く誓い合った。「ニューセンチュリー計画」と名付けた。
筆者如きがその指揮を執り得たのも、終戦時の辛い体験を経て、「死んだつもり」で生きてきたこと、『致知』で学んだ「逆境は神の恩寵的試練」の賜物と言えよう。
昭和61年2月4日筆者の師、山本為三郎前社長の命日に「コク、キレ」のビールを掲げて立ち上がり、やがて勝利の日に辿り着いた。

 平成4年藤尾社長誕生。この物語を世に問うたのが『立志の経営』であった。
現役中の出版を自らに禁じていた筆者に迫る藤尾新社長の熱意は尋常ではなかった。
「竹に上下の節あり」と節を大切にせよという訓えは、「歴史に学べ」と同意と気づく。
筆者の、陸軍士官学校で歴史の教官に「相手国を滅ぼすには武器は要らぬ。その国の歴史を消せば、その民族は消える」と教わった驚きの日を思い出す。
戦後68年、歴史の学びを怠った我が国の仕立て直しに「致知」の読者は起ち上がらねばならない。