統一地方選挙を終え、新しいスタート!(2015/5/1)

愛媛県議会議員5度目の当選!
(「明比昭治」西条市選挙区でトップ当選を果たす)

      有権者数 90,857 投票率 50,00%  明比昭治 10,247  当選
                              渡部  浩  9,630 当選
                              玉井敏久   9,478 当選
                              塩出 崇   6,540 当選
                              森 夏枝   6,043  次点
                              近藤達也   3,012

 西条市選挙区では、今回の県議会議員選挙に現職3名、新人3名(2名は市議会議員から、もう1名は日本維新の会から)が立候補し、愛媛県下では3選挙区で無投票選挙区があるなど全国的にも無投票選挙が多くなる傾向の中で、注目される激戦区の様子であった。

 私は、現職議長として公務をこなしながら選挙戦へ臨んだのであるが、逆に支援者が現職議長を恥ずかしい結果にさせてはいけないと、陣営を引き締めて頑張ってくれた結果が出たのであろう、これまで市議会議員の選挙も通じ11回の選挙を経験したが、初めてトップ当選の栄誉ある結果が戴けたことに、この上もなく感謝!である。

 前回は(4年前)東日本大震災の後で、選挙広報活動(街宣車)も自粛し、ハンドマイクで街頭演説をする様子だったが、今回は車もだし広報したのだが、半分は雨模様でウグイスさんも大変だったが、みんなよく頑張ってくれた。

 現職議員3名がそれぞれ高得票で、さすがに一生懸命平素の活動にも取り組んでいることが評価された結果だろうと思う。3位当選と4位の新人当選者との票差が約3000票もあったことは、戦前の予想外の結果のようだが、やはり広い選挙区で人柄や政策を評価していただくには短時間では無理なことの結果であろう。

 平素より広く有権者に理解が得られる活動が大切なことが良くわかる。特定の人の応援だけでは越えられない壁だろう。
このことの大切さをしっかりわきまえて、向こう4年間の任期にも頑張って「皆様とともに歩み、共に考える」ことを肝に銘じたい。

 選挙中も通じ聞かせていただいている地域課題や、選挙に掲げた「公約」実現のため取り組みますので、今後とものご支援を宜しくお願いします。

己を正しくして人に求めざれば、則ち怨み無し

月刊『致知」2015.5月号より引用  伊與田覺・(論語普及会学監)

『まず自分を正すことを先にする』

 以前、知人が会社でリストラに遭って私のもとにやってきました。
会社では係長を務め、とても有能な人でしたが、上の人から疎(うと)まれて退職を余儀なくされたのでした。既に年齢は50に近く、なかなか就職先も見つからなかったのですが、まだ学校に通う2人の子供がおり、家でぶらぶらしているわけにもいかないため、しばらく私の仕事を手伝ってもらっていました。

幸い1年くらいして3つの会社から内定をもらい、奥様と相談して、一番給料の安い会社を選ぶことにしたそうです。私は、無事就職が決まったことをとても嬉しく思うとともに、職を失った1年の間に、その方が人間的に随分変わられたことを実感したものでした。

以前は、自分ができることを鼻に掛けたり、誇示したりすることもあったようですが、辛い浪人生活を送るうちに、謙虚に構えることの大切さを実感されるようになったのだと思います。採用試験でもそれが伝わったからこそ、3社もの会社から内定をいただくことができたのだと思います。いまは新しい会社で元気に働いておられますが、1年の浪人生活がその人には大いに役立ったものと思います。

『中庸』という古典に、
「上位に在りて下を凌(しの)がず。下位に在りて上を援(ひ)かず」
という言葉があります。上の地位にある者は下の者と争わない。また下の者は上役の気を引くようなことばかりすべきではないということです。自分の下に出来のいい部下が来ると、負けん気を起こしてこれを虐(いじ)め、蹴落としてしまう人がいますが、上役は上役らしく、部下を立派に育て上げなければなりません。
また下にいる人は、早く認められたいがためにあれこれとおべんちゃらを言い、気を引くようなことばかりすべきではありません。
「己を正しくして人に求めざれば、則ち怨み無し。上(かみ)天(てん)を怨みず、下(しも)人(ひと)を尤(とが)めず」
自分自身を正して人に求めなければ、怨みに思うこともない。認められないということは、相手が悪いからではなく、自分自身が十分ではないからと考える。天を怨んだり人を咎(とが)めたりせず、まず自分を正すことが先であるということです。

『不都合の原因を外に求めない』

 道には車道もあれば歩道もあります。人は歩道を歩いていれば間違いありませんが、車道を無理やり横切れば命を落とすこともあります。道理に適(かな)った道を歩くことが一番安全なのです。
『中庸』は、
「君子は易(やす)きに居(お)りて以て命(めい)を俟(ま)ち」
と説いています。「易きに居り」というのは、人間にはちゃんと踏み行なうべきルールというものがあるということ。「命を俟ち」とは天命を待つ、天に任せるという意味です。

君子、即ち立派な人物は、いかなる場合でも自分のやるべきことを道に適うようにまっしぐらにやっていく。そうすれば天命が下ってくるということです。
「小人(しょうじん)は険(けん)を行いて以て幸いを儌(もと)む」
ところが小人、つまり普通の人、あるいはつまらない人物はそのルールを踏み外し、わざわざ危険な道を通ってそこから幸を求める。それによって一時は上手くいっても、思いがけない落とし穴に落ちてしまいます。

世間で持てはやされていた人が、一瞬にしてその地位や富を失ってしまうことがよくあります。これぐらいはと軽く考えて険を行い、たまたま上手くいっても、それが度重なればいずれ露見してしまいます。易きに居りて進むことは遅いようではあっても、最終的には安全にして天を楽しむ安楽な生活に連なっているのです。
「子(し)曰(のたま)わく、射(しゃ)は君子に似たる有り。諸(これ)を正鵠(せいこく)に失いて反(かえ)って諸を其(そ)の身に求む」
古代中国では、射、すなわち弓術を教養のためにも重視していました。ここではその射が君子によく似ていると言っています。小人は的を外した時に、それを弓矢のせいにするけれども、君子は自分の技量が未然だったとして反省するというのです。

不都合なことに見舞われても、その原因を外に求めたり、他者を咎めたりすることなく、まず自分の至らなさを反省し、一層精進を重ねていく。そういう立派な人物を目指してゆきたいものです。