戦争の無い平和を守ろう。(2015/8/1)

戦争は絶対にしてはならない。平和を守るのは自らの責任と努力で実現しなければならない。

 今、国会では平和と安全を守るための関連法案が出され、審議されている。
なぜか議論が自衛隊や基地や日米安全保障のことに関し、違憲か合憲かの議論に戻り、憲法9条が絶対平和を守ってくれるんだ!と思わせるようなことを論点に、現実問題とどう立ち向かい、平和な未来を維持してゆくための日本のあるべき姿をどう築き、国の安全と発展、国民をいかに守るのか、その責任はだれにあり、どのように実行担保するのか?との議論がかみ合わず、この法案を一層わかりづらくして、政府が強行しているような姿勢がマスコミでも強調されるものだから、本当に戦争に加担する道を開くのだろうかと、思わされてしまっているのではないだろうか。
衆議院では通過し、参議院に議論の場が移るのだが、絶対に戦争はしない!とはっきりする見識を示してほしいものだ。

 違憲か合憲か?違憲だというならば、合憲にするにはどうしたらいいのだろう?
我々もしっかり自覚しておかなければならないのは、掛け声だけで平和は守れない!自分だけが平和主義者だと思っていても平和は守れない!ことだ。
 戦争を放棄し、戦力を保持せず、戦争反対のお題目を唱えていれば、平和が守れるのだろうか?だれが事故の見舞われたときに救ってくれるのだろう?
やはり自分や家族に害が及ばない防御の責任は自分にあろう。

 先の悲しい戦争体験から70年幸い、殺し合いになるような国際紛争に我が国は直接会っていないので、平和は空気のような存在になっているのだが、この空気もいつか汚染がひどくなり、蝕まれるかもしれない状況がおきるかもしれません。敵をつくるのではなく、敵にされないようにもしなければなりません。

お盆にはご先祖さんを供養し、今の自分を生かさせてくれていることに、感謝をしましょう。

過去に学んで未来に備える

月刊『致知」2015.7月号より引用  鍵山秀三郎(日本を美しくする会・相談)

『富と自由を得た代わりに失った大事なもの』

 日本の国民は半世紀の間に、歴史上始まって以来の豊かさを手に入れました。そして、それは経済的な富だけでなく自由も一緒に与えられました。
しかしながら、現代の日本の姿は一世紀前の人から見れば、およそ同じ国とは思えないほどの国になりました。人々の願いは“富と自由”を手に入れることであり、これさえ手にすれば幸せになれると信じてきました。
 この願いはかなり叶えられており、本来ならば大方の人たちが幸せになっているはずでしたが、残念ながらそうはなっていないと実感している人のほうが多い国となりました。
それは、手に入れたものがある代わりに、失ったものもたくさんあるからです。得たものは、お金や財物といった目に見えるものばかりであり、失ったものは心という目には見えず、手で触ることもできないものでした。

 ドイツのノーベル賞作家ギュンター・グラス(故人)の『女ねずみ』という作品に、“人間はいろんなことができた。しかし、ただ寛容にだけはなれなかった”という一節があります。そのとおりの社会になりつつあります。
日本人に限らず、人間は予期せぬ富を手にすると、限りない自由も欲しくなり、結果として自制心を失っていきます。そして自分の行動を規制するものを排除したくなります。これはルールのないスポーツを望むのと同じで、社会という組織が保てなくなります。

 国家には憲法・法律があり、社会にもまた、小さくは家庭にも個人にも、遵守すべきことがたくさんあります。明文化されたもの以外にも暗黙のルールを含めれば無限にあるともいえましょう。
このルールか守られている間は、自由は高い意義と価値があります。しかし、自分のわがままや身勝手な行為を自由と履き違える人が現れると、自由は社会の健全な発展を損ねてしまいます。
 
 イギリスの思想家ジョン・スチュアート・ミルが“人々が自由を求めれば求めるほど、不自由になる”と警告しているとおり、自分にとっての好都合を自由だと勘違いする人は、不自由に陥っていくのです。
しっかりとルールが守られているスポーツがその美しい姿で人に感動を与えるよりに、社会もルールを守る人たちによって、美しい姿をつくり出していくと確信いたします。

『いくつになっても社会に貢献できる長寿に』

 聖賢(せいけん)という言葉を耳にされたことがあるでしょうか。先ほどの従容として道に中る人が聖であり、聖人となるべく努力をしている人のことを賢といいます。賢はまだ努力中ですから、では、富を手にすると、どうしてルールが守られなくなり、わがままな自由を求めるようになるかというと、それは財物に責任があるのではなくて、手に入れる手段や方法に原因があります。
富を得るのに相応しい努力や忍耐をしている人は自制心を失わず、秩序は保たれますが、労せずして手に入れた人はその富がその人の心を蝕んでしまうのです。ガンジーが七つの大罪の中で“労働なき富”と警告しているとおりです。

 世の中には予期せぬ財貨を手にしたために勤労意欲を失うか、反対により多くの物を求めて欲望を膨張させ、身の破滅を招いた人が少なくありません。
フランスの社会学者デュルケームが、”欲望にたいして供されるますます豊富な餌は、さらに欲望をそそりたて、要求がましくさせ、あらゆる規則を耐えがたいものとしてしまう”(『自殺論』より)と言っています。
富を手にしてもなお規範意識を失わずに人生を歩むことも可能です。それは得た富と自分の身体と時間を使って、公共に尽くしていくことです。つまり、自分に与えられた力をいつも人を喜ばすことに使おうと心掛けていけば、平穏な人生を歩むことができましょう。

 日本は世界に冠たる長寿国になりました。いくら長寿であっても国家の負担になる長寿ではいけないと思います。いくつになっても社会に貢献できる長寿であり、後世の人たちに負担をかけない人生を歩んでまいりましょう。そうすれば日本は必ずよい国になります。