春に志を!(2018/2/1)

皇紀2678年 建国記念日(我が国の誕生日)みんなで祝おう!
祝日には「国旗」を掲げて!皇室の弥栄もお祈りしよう

 2月3日は節分で、2月4日は立春。いよいよ春を迎え万物の芽が伸びるスタートを切る新しい決意を確認する機会と、季節感もマッチする。

 立春には古来日本の伝統文化や生活習慣の中で培われた「元服」の儀式があったが、今は中学校で「少年式」として、自立の心構えを考える機会として、何かにチャレンジ体験するような機会として、取り組まれている。
 対象者のみならずみんなで国や地域のことを考える機会として2月11日は、建国記念日なので、この意義を考えてみたいものだ。

 神武天皇がご即位されてこの国を治めた始まりの日である。解っていながらお祝いするのが気恥ずかしのか、はたまた特定の人の騒ぎと扱われているのか、自分の誕生日なら家族や友達やらも含めてみんなでお祝いすることに何ら抵抗感もなく、むしろ進んでお祝いし、なにがしかの成長やら変化を確認し、新たな進歩を見つめなおすなどの心が動くのに、国のこととなると何故か他人事のようにさえ扱われる空気があるのは、非常に残念だ。

 世界の各国においても建国や独立をお祝いし、平和な国づくりを確認し合うのは当たり前で行われている。どうもわが国の国民性(アイデンティティ)が後ろ向きの方向に向くよう、あえて足並みを乱すような思想が自国のマスコミでも重用扱いされるので、混乱の要因となっていると思う。自らの立ち位置足場をぐらつかせることは、相手に利を与えるばかりである。これを正さなければ、むしろ平和を守れないことになるのではないかと危惧するものでもある。

 おりしも韓国で冬季オリンピックが開催されるが、ここでも選手は自らの能力を示すことでもあるが、頑張れニッポン! その場に立つため選ばれた母国の代表として、国の名誉則ち国旗を掲げることを目指し、又それを応援する国民も待ち望んでもいるのだ。まさに国の威信と名誉の象徴が国旗に表されるのだ。

 その思いと意義を日常の生活の中でも示すことは、国民としての自覚と責任感の醸成にもつながるものだ。法で国民の祝日には国旗を掲揚することが定められ、日の丸が国旗だということも定められている。約束や法は自分たちの責任で守り、生活の中で生かす必要がある。祝日には国旗を掲揚しよう。

 建国の日を祝う行事は各地で行われると思われるので、遠慮なくみんなで参加しよう。

災害は予期せず起きることが常。危険回避の備えも大事

 群馬県の草津温泉近く「白根山」、山形県の蔵王温泉近く「蔵王山」で噴火の兆候が見られ、草津のスキー場では噴石が直撃し、死者も出た。被災された皆さんには心よりお見舞い申し上げます。

 地震予知はなかなか難しい問題のようだが、早めの予知・検知を火山列島ゆえに怠ることなく取り組んでほしいものだ。
ともかく災害は後で悔やまれることばかりだが、できる限り避けられるように手も尽くすべきだろう。

 目に見えないので後回しになりがちだが、備えよ常に!の心がけを大切にしよう。

賞罰明らかなれば則ち徳の至れるものなり

月刊『致知」2018.2月号【巻頭の言葉】より引用 數土文夫(JFEホールディングス特別顧問)

『信賞必罰の重み その実践は徳の極至』

  政・官・財、あらゆるところで不祥事が相次いでいます。
さらに残念なことは、いずれの不祥事も責任の所在が明らかにされていないことです。

 古代中国の斉の名宰相・管仲は次のように説いています。
「明賞は暴ならず。賞罰明らかなれば、則ち徳の至れるものなり。」
(正当な報奨は浪費、不要なコストではない。正当な刑罰は暴虐、パワーハラスメントではない。信賞必罰こそ最高の徳である。)

 リーダーは信賞必罰の重み、そしてその実践は徳の極致であることを理解すべきだと言っております。しかしながら今の日本には、教育の場から社会全般に至るまで、過度に平等や、優しさを表面に出そうとする風潮が蔓延し、厳しい判断を的確に下すことが出来なくなっているところに問題の根があると私は感じています。リーダーたる者、部下から好かれようと思うあまり、組織のたがを緩めるようなことがあってはならないのです。

 信賞必罰は、その語源が示すとおり、まず褒めることが肝要です。小学校の通信簿で、先生から自分を評価するコメントをもらい勇気づけられた経験をされた方も多い事でしょう。褒めることにはかくも大きな力があるにもかかわらず、日本の組織では、大勢の前で特定の個人を褒めることを躊躇する傾向があります。ましてや、公平に罰することはさらに難しいというのが実情です。

 現場を熟知していないリーダーに、的確な信賞必罰の実践は不可能です。平素から現場に足繁く通って実情を十分把握しておくこと。その上で、なぜその人が褒めるのに値するのか、なぜその人を罰するのかを明確にして皆を納得させ、組織の士気が上がるよう努めなければならないのです。

 『三国志』で有名な諸葛孔明は、自身の後継者と考え目を掛けてきた馬謖が、軍律を破って自軍を破滅させたため、心を鬼にして極刑に処しました。規律を守るためには、たとえ愛する者であっても違反者を厳しく処分する。世に言う「泣いて馬謖を斬る」の故事です。その代わり孔明は、馬謖の遺族の面倒を終生見たのです。

 日本でも、二宮尊徳や上杉鷹山といった一流のリーダーや改革者は、いずれも信賞必罰を明らかにして改革を成し遂げました。尊徳が下野国の三か村を立て直した際は小田原城主から与えられていた補助や特別手当によって他力本願に依頼する心が芽生え、また逆に村民の和が乱れ、意欲が低下している現実を、勇を振るって指摘する一方、頑張っている者を決して見過ごすことなく報いたのです。

『徳は孤ならず 必ず鄰あり』

  管仲は、さらに次のようにも説いています。
「衆人のその心を用うるや、愛は憎しみの始め、徳は怨みの本なり。ただ賢者は然らず。」

 凡人は、報いられることを期待する。したがって、誰かをえこひいきすれば憎しみのもとになり、誰かを罰すれば怨みを買う。ゆえに多くの人は、徳の極みである賞罰を明らかにすることを躊躇しますが、賢者はそうではないというのです。

 私はこの言葉から『論語』の「徳は孤ならず 必ず鄰あり」という言葉を想起します。

 徳を積んでいる者は決して孤立することはなく、必ず理解者が現れるというのが一般的な解釈です。しかし、管仲の教えを踏まえてこれを読み解けば、明賞明刑といえども、決然と実践することは容易ではない。安易に徳を実践すると皆から疎まれ孤立する場合が普通だ。しかし、勇気を持ってこれを為せばよい結果がもたらされ、その決断を評価する賛同者が後々の世でも必ず現れることを示唆しているとも言っているのです。宰相として、政治の現場で様々な苦難を乗り越え国を豊かにした管仲の足跡に照らせば、こうした解釈も十分成り立つと私は考えるのです。

 日本では聖徳太子以来、「和を以て尊しとなす」ことが重んじられてきました。しかしこの和の精神と、信賞必罰は決して相容れないものではありません。賞罰を明らかにし、なおかつチームワークを高めていくことこそがリーダーの真の役割なのです。

 国も組織も信賞必罰という原理原則を外れて維持発展させることなどできません。このことが一人でも多くのリーダーに理解され、不祥事が絶えないままの日本の風潮に歯止めがかかり、より良い未来へと舵が切られていくことを私は願ってやみません。