愛と平和を育もう!(2022/5/1)

収まらないコロナ禍、ロシアのウクライナへの戦争侵攻。
早く平常な日常生活を取り戻しましょう。
そのためには何より自分を守り、身近な家族や友人と愛情で結ばれた絆を育て、連帯して平和な社会を守りましょう。

 四季の巡りは早いもので、寒さの中で準備されていた蕾も春風とともに一斉に開花し、今や緑の新緑が息吹くとともに初夏を思わせるような風が、頬さえ緩ませてくれます。

 そんな自然の中での私たちの何気ない生活が、今、なぜか心の虚しさを感じています。こんな思いは私一人でしょうか?

 息苦しいマスク生活も3年に及ぶようになり、新型コロナ感染症は収束が未だ見えず、むしろ感染力を強くする進化をウイルスの方が勝っています。

 医療技術や医薬も進んでいるものと思います。ワクチン接種についても、マイナス要因を過剰に煽らず、接種の確率を上げ、感染拡大をともかく抑え込むことが重要です。

 疑念ばかり持たず、理解と協力でお互いの大切な命を守るための「愛情」をもって連帯しましょう。この春のゴールデンウィークを境に、今度こそ収束へつなげたいものです。

 連日ウクライナでの戦場の様子も伝えられています。目も覆いたくなるような惨状を、テレビのニュースなどで見ているばかりでいいのでしょうか。制裁議論もありますが、早く収束させなければ、世界中の経済バランスも崩れ恐慌への進行や暴動の機運に拍車がかかり、戦争・戦闘状況が拡大しないかと危惧します。

世界も混迷の変革期です。
安全・安心な社会を守るのは政治の責任です。
その政治家を選ぶのは国民の責任です。7月の参議院選挙は大事です。

 このような状況を切り抜けるにはどうすればよいのでしょう。それを取り組むのが見識ある政治の力でしょう。その政治家は私たちの代弁者ですが、私たち一人一人がその代弁者に託す意思をしっかり示すことが必要です。

 今更ながらですが選挙に向けて、しっかりとした自覚が必要で、目の前のハエを払うような視点で、選挙を扱わないようにしましょう。
来る7月の参議院選挙は、国民の見識が示された結果としましょう。

若者の自殺を防止しよう。
自分の命は親と社会(天)からの授かりもの!

 児童生徒の自殺が近年増加傾向にあるようです。若者の死因の第1が自殺というのは先進国の中で日本だけだ。政府の自殺対策白書で令和2年の小中高校生の自殺は499人でこれまでの最多となっている。平成28年に200人を超えてから年々増加の一途だ。

 原因としてコロナ禍で不安が高まっていることなどもあるが、いじめ問題などもあるようだ。自殺未遂は死者数の10倍もあると言われており、若者の引きこもりの問題とも含め、若者の自殺防止対策は非常に大事な問題である。

 社会でこぞって若者に声掛けや支援の手を差し伸べ、自分の命は自分だけのものではないのだよと、社会人としての命の大切さの考えを広めてゆこう。

 ゴールデンウィークも、明日へ繋がる大切な時間を、みんなで過ごそう!

哲学を持つことの意味

月刊『致知」2022.5月号【巻頭の言葉】より引用 
茶道裏千家前家元 千玄室

『西洋の哲学と日本の哲学』

  ロダンの「考える人」をご覧になった方は多いと思う。ブロンズ像の場合は最初に作成されたものに価値があるとかオリジナルが重要とかの区別がないと聞いたことがあるが、実際、国内をはじめいろいろな美術館で鑑賞することができる。

 そしてこの像が、哲学的な何かを考えている様子を表現しているのではないかと思う方もまた多いであろう。

 哲学というと、ブレーズ・パスカルが『パンセ』に書いている「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦に過ぎない。しかしそれは考える葦である」、いわゆる「人間は考える葦である」という言葉がまず頭に浮かぶ。人間は葦のように孤独で弱い存在ではあるが、「考える」ことができる=思考する存在としての偉大さや尊厳があるだけ葦よりも尊いとして、考えることの重要性を表している。西洋の哲学は非常に頑固でひたすら考えるということに固執しているように思われる。

 かたや日本の哲学的な思いからみると、鴨長明の『方丈記』の最初の一文が浮かぶ。即ち「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」。

 鴨長明は京都の下鴨神社の禰宜の次男だったが、神社に留まることができず日野山庵で晩年を過ごした。その庵の大きさに由来して書名を『方丈記』としたといわれる。この『方丈記』には、安元から元暦年間(12世紀)に起きた大火をはじめ天災地変の5つが克明に記されており、仏教的な無常観を以て人生の無常を書いているといえる。

『茶道の総合文化性が哲学を生んだ』

  では、哲学とは何なのであろうか。それは、人間が生きていく上での芯となる考えや思考だと思われる。俗に人生哲学などと言う方もおられるくらいで、1つの指針として心に持っている考えだろう。

 そして家にもそれぞれのものがあり、昔は「家訓」として受け継がれていったのも、ある意味で意識的哲学ではなかろうか。

 いつの世も親はよい子に育ってほしいと考え、理想を持って子供を育てておろう。しかし、子らも成長するにしたがい、自我を持ち自己主張をするようになる。自身の哲学を持つようになるのであるが、そのようになった時、それを受け止められるだけの大きな心を親は持たなくてはなるまい。

 この頃は、幼子が言いつけを聞かないといって食事を与えず殺伐なことをしてしまうようなことが起きている。このようなことを起こしてしまう親たちは、自身が成長しきれず、自らの人生意識など持たずその場その場で流されて生きているのであろう。

 私は戦後、茶道を以て和な心を世界へ広めるためにいろいろな国へ赴いたが、周りの人からは「日本人でさえ難しい茶道が外国の人に分かるはずがない」と言われた。千利休居士が言われたように「茶の湯とはただ湯をわかし茶を点ててのむばかりなることと知るべし」なのである。

 難しく考える必要はない。おいしいお茶を相手に点て、また自分でもいただけばよいのだ。外国の方は、至ってシンプルにすすめ合う心を受け入れ、おいしいお茶をいただく。日本人は、形だけの茶道を見てかえって身構えてしまい心を開けないのであろうか。

 茶道の歴史を辿れば、鎌倉時代に栄西禅師が『喫茶養生記』なる茶の効用を記したものを書かれている。禅の修行では、疲れを癒すために仏様にお供えしたお饅頭などを頂戴し、総茶礼として一服茶をいただいた。中国や朝鮮半島ではただ飲むだけであった茶を、茶道という思想を持った道にしたのである。

 剣道、柔道など「道」がつくものにはこれぞれに進むべき心の持ちようが示される。それが哲学と結びつけられる。茶道は一種独特の総合文化性を持ち、その中で哲学的な思想を生み出した。この哲学性が、外国人には何かすっと入っていき、さらにその奥を極めようとしてお稽古を続けられる方が多くなってきている。

 茶の効用もさることながら、一服の茶を喫する時の心のやすらぎをぜひ汲みとっていただき、共に茶の持つ人生哲学を感じ取ってほしいと私は願っている。

 一服の茶を喫する時の心のやすらぎをぜひ汲みとっていただき、共に茶の持つ人生哲学を感じ取ってほしい