白河の関を越えた(2022/9/1)

夏の高校野球甲子園大会、第104回大会で初めて深紅の大優勝旗が東北へ。「仙台育英高校」優勝おめでとう!準優勝の「下関国際高校」も最後までの健闘は立派な戦いぶりを残しました。

 新型コロナウイルス感染対策故に、有観客での試合ができる大会は3年ぶりとなった。ひたむきに打ち込む若者の姿を見て、日本中が沸き上がる夏の歴史ある行事、高校野球の甲子園大会であった。

 全国各地で地方の予選も勝ち抜き、最後の頂点に立つためには、何試合も勝ち抜かなければならないのだが、見事に初優勝を「仙台育英高校」が果たした。

 長い歴史の中で近年は強豪校も育っており、素晴らしい選手がいながらも東北勢の優勝は初めてで、故事にも習い「白河の関越え」をやっと果たしたと、東北勢にとっては喜びと感動の渦が大きく湧いたようであった。

 色々な試練に耐えて頑張る姿に私たちは感動を覚えるものであるが、このところではコロナ禍により、いきなり練習が閉ざされチーム編成にも苦労するような厳しさもあり、泣くに泣けない苦難な状況を乗り越えて頑張ってきた全国の生徒・選手の頑張りにも、拍手を贈ってほしいと仙台育英の須江監督の言葉にも感動を覚えたのは私1人ではないだろう。

 野球に取り組んだ選手たちへの贈る言葉を超え、色々な想定外のことが起き、それをも乗り越えて頑張っているすべての人たちをたたえ贈る言葉として受け止めたい。勿論、準優勝された「下関国際高校」の選手たちにも同じく健闘を称えたい。お盆休みにはゆっくりテレビで野球観戦し、爽やかな一喜一憂の時間だった。

行く先を見出せない論争(ニュース報道)に明け暮れ、社会不安ばかりが募るのだが、これでいいのだろうか日本。政治的解決能力を導き出す、良識や見識の有る法治国家のあるべき姿をみんなで考えよう。

 爽やかなテレビ中継も見させていただいた一方で、連日のニュースや解説で心晴れないのが「コロナ感染第7波の爆発と対策や医療崩壊の防止策」「安倍元総理の国葬扱いへの批判」「統一教会と選挙や政治活動の関り批判」「ロシアのウクライナ侵攻攻撃」などの政治がらみのニュースだ。

 どの問題も平和社会や命の確保のために一刻も早く解決し、平穏な日々を取り戻すようなってほしいものだが、解決への政治的責任行動が目に見えてこない。

 非難の言葉の応酬は聞こえるのだが、解決のため皆がどうすればよいのか、その道筋を政治がどう導いてゆくのか?そのための良識ある見解と協力姿勢はどうあればよいのか?国民の主権者としてのあるべき姿はどうあるべきなのか?そんな問いかけがあって、みんなで知恵を出し合い先が見えてくるのだろうが、みんな非難はするが解決のための、協力の意思が見えない現状であろう。

 民主主義は勝手放題の自己主張をする権利ばかりが尊重・保障されるものではない、多様な意見はあろうともそれを集約して、秩序ある社会を造る義務と責任が主権者には無ければならない。

 今の我が国の現状は秩序も良俗も機能せず、国家の意思が示されていないように思うのは私一人だろうか?私も地方自治の政治にかかわるものだが、非常に恥ずべき現象の中にいると思えてならない。

 特に国権の最高機関として国会はしっかりと「立法府」の役割を、各議員は自覚と責任を強く持ちこの国のために役目を果たしてもらいたい。自己主張ばかりして収めることを放棄して行動することは厳に慎むべきと訴えたい。早く世界から信頼され、強調しあえる国家にならなければならない。

 ロシアのウクライナ侵攻戦争はいまだ収まらず、大切な命を奪い財産を破壊し続けていますが、いったい何が残るのでしょう。

 景気も経済も世界の中で成り立っている。平和を守り国民の命を守るためにも協調と連帯の輪を大切に築き守らなければならない。賢い日本人であり国家を守りましょう。
自由や自主を守りたければ、みんなで考える責任があります。

収穫の秋を迎えますが、台風災害などにも気を付けましょう。

9月定例愛媛県議会は、9月9日から10月5日までの日程で開催されますが、諸課題に県民の声や思いを受け止めたしっかり議論を重ねてまいります。

しあわせは微笑みと共に

月刊『致知」2022.9月号【巻頭の言葉】より引用 
アサヒビール社友 福地茂雄

『しあわせとは何か』

 「しあわせ」は「仕合わせ」とも「幸せ」とも書かれます。
「仕合わせ」という言葉が使われようになったのは室町時代で良きにつけ悪しきにつけ「巡り合わせ」語源とするといわれます。それが江戸時代に至って、幸運な事態を「仕合わせ」と言い始めたようですが、定かではありません。

 一方の「幸せ」という表記は、「幸」という漢字から変遷して用いられるようになったとも聞きます。

 かつて、アサヒビールの社友取締役から、「アサヒビールには技術的な研究所はあるが、生活文化に関わる研究所がない」とのご指摘を受けたことがあります。そこで、ビール・飲料メーカーとして生活文化に関わるに相応しい東京・青山の地にアサヒビール生活文化研究所が設けられました。そして生活文化の研究テーマの1つが、“しあわせ研究”でした。

 2千人余のご協力を得て調査した結果、最も多かった回答は、しあわせとは「家族との深い絆」「家族の健康」など、「家族」をキーワードとするものでした。環太平洋の民族の間では、「家族」が大切な国民性となっているようです。

 その他では、「異性との良好な関係」「恵まれた容姿」「社会的に認められる」「企業で地位が上がる」「物欲、金銭欲」「生活のゆとり」など多岐にわたりましたが、中には「幸福探しをせず、しあわせ感は希薄」と俗離れした仙人的な回答もありました。

『しあわせは心の持ちようで決まる』

 文献でどのように語られているか興味を持った私は、図書館に立ち寄ってみましたが、「しあわせ」「幸福論」に関する蔵書は何と2千数百冊に及びました。中には調査と全く逆の論述もありました。

 バートランド・ラッセルは『幸福論』の「家族」の章において、過去から私たちに伝わってきたあらゆる制度のうちで、今日、家族ほど混乱し脱線しているものはないと記しています。
 
 「両親の子供に対する愛情と、子供の両親に対する愛情は、幸福の最大の、源の1つとなりうるのに、実のところ、現代では、親子の関係は10のうち9までは、両者にとって不幸の源になっており、100のうち99の場合、少なくとも一方にとって不幸の源になっている」

 私は日本人として、家庭の絆が幸福の重要な要因であると信じたいところです。

 また、カール・ヒルティの『幸福論』では、「ひとが意識に目ざめた最初の時から意識が消えるまで、最も熱心に求めてやまないものは、何といってもやはり幸福の感情である」と述べられています。

 それほど「しあわせ」「幸福」ということは我われ人間にとって大切な要素であるのに、世界は戦争に明け暮れ、家族が離散したり、その日の食にさえありつけない人が何と多いことでしょうか。

 作家の加賀乙彦氏は、『不幸な国の幸福論』の中で、幸福を定義してはいけないと書かれています。確かにそういうものかもしれません。幸福感は人によって千差万別です。

 ノートルダム修道会のシスター、ジャンヌ・ボッセさんは著書の中で、
「悲しいことやつらいことがあっても、そのあとにしあわせはやってくるのです。泣いて過ごす日があっても、それがずっと続くわけではないのです。しあわせは、涙のあとにきっと届くのですから」(『しあわせは涙のあとに届くもの』)

「いつも微笑んでいましょう。当たり前のことに感謝しましょう。小さなことにも大きな喜びを見つけましょう」(『しあわせは微笑みが連れてくるの』)

と述べられております。「笑う門には福来る」という日本の諺にも通じるものがあり、大変共感を覚えます。

 日本人は、いわゆる“中流”が多くを占めています。上を見てもキリがない。下を見てもキリがない。「しあわせ」は、その人その人の心の持ちようで決まる、と私は信じています。

 「しあわせ」は、その人その人の心の持ちようで決まる、と私は信じています