平和を願う!(2025.1.1)
新年あけましておめでとうございます。
皆々様のご健勝とご多幸をお祈りいたしております!!
本年も宜しくお願いします。
色々不安なことが多い社会状況にありますが、とにかく皆で支えあい、励ましあって「大難は小難に、小難は無難に!」過ごせるよう努めましょう。
真摯な努力に対する結果は見放されないでしょう。
昨年は1月1日に能登半島で地震が発生、いきなり試練を試される幕開けとなりました。現地では未だ復興の手筈が届かず、加えて9月に線状降水帯の豪雨災害が追い打ちをかけるという大災害が発生、復興の手配も遅らせている状況で、被災された皆さんには、正に「心も折れる」つらい日々が続いていることと拝察しますが、どうか気丈に頑張ってください。
明日は我が身もの思いで、みんなで心寄せ合って支えあい頑張りましょう。
地球環境の悪化による異変にも対応が必要です。
頻発する自然災害は、地球環境の悪化が引き起こしているのですが、生態系の変化も引き起こしています。地球の70%を占める海水の温度変化は海に住む魚をはじめ生息の異変も実態として起こっています。気温の変化は植物の生態系にも変化を与え、あらゆる環境変化を起こしています。このことも今に始まった警鐘の問題ではないのに、人類世界が一致して対策・対応に取り組むべきだが国際機関も完全一致の行動がとれないという人間欲の問題なのでしょうか?
SDGsの運動をもっと力を入れて取り組まねばと提唱するものです。
SNSの利活用にも制約が必要でしょう。
コンピューター・インターネットの普及発展は目覚ましいものがあり、私たちの生活スタイルをも日々革新し、全く変えてしまっています。情報伝達の手段が、紙ベースのやり取りでなく、画面上でのやり取りとなり、瞬時の判断が求められるスピードも進んでいます。
生半端な知識での対応は大きな落とし穴に入る危険が一杯の状況を生み出すと思います。現に犯罪に結びついているのは、善悪の判断をさせる暇を与えず迫っているからです。
選挙活動にもその手段が使われ、混乱のベースが造られていると私は思います。法の規制で社会の秩序良俗をしっかり守れる社会にしなければ、混乱と犯罪社会を造ることになるでしょう。
先の世界大戦から80年、「原爆被爆者団体」ノーベル平和賞を受け、世界に戦争や核使用の悲惨さと愚かさ訴える機会もできました。平和を守った日本を、これからも守り続けねばなりません。
それには私たち一人一人の自覚と責任が求められています。あきらめず頑張りましょう。
この度全国都道府県議会議長会から議員在職25年以上の表彰を戴きました。これは西条市民他、多くの皆さんのご支援があっての賜物で、心から感謝の誠をもって報告させて戴きます。
思い返せば27歳で西条市議会議員に当選させて戴いてから、50年を迎えます。 「安全・安心・住みよいまちづくり」の諸施策に継続して取り組めていることに、何よりも有り難く充実感のある毎日です。有難うございます。 明比昭治 合掌
新年を迎えるに思うこと
月刊『致知」2025.1月号【巻頭の言葉】より引用
高千穂神社宮司 後藤俊彦
〜 「農は国の基」 神話に遡る稲作文化 〜
令和六年は元日に石川県能登半島地震が発して多難な年明けとなった。八月半ばに、和の米騒動”ともいうべき米の供給不足を懸念する報道がなされて国民生活に不安の影を落としたが、幸いその後に今年の収穫量は”やや良”という農水省の発表で事態は沈静化した。しかし、農業を含めた第一次産業就業者の割合はこの百年で五十%から三%まで減少し、わが国の食料自給率は実質十八%と先進国の中でも最も低い水準にあると専門家は指摘している。
かつてわが国は豊葦原瑞穂国とも称して、稲作が国の文化をつくり、国家・社会の平和と繁栄の基とも言われてきた。十一月二十三日は宮中の神嘉殿において、天皇陛下自ら皇居内の水田で栽培し収穫なされた新穀を天照大神に奉献され、自らも聞食される新嘗祭が斎行された。
稲作の起源は古く神話の時代まで遡る。 『日本書紀』によれば天照大神がよりよい食物を求めて使者を遣わされたところ、保食神の身体のあちこちから米、椰、栗、麦、豆などの種子が生り出てきた。 天照大神はこれこそ蒼生(人々)の食いて生くべきものと歓ばれ、天邑君を定めて稲作を国中に広め、自らも高天原の神聖な田で稲をおつくりになったと書かれている。やがてその稲を携えて地上に降臨されたのが瓊瓊杵尊であり、その志を継ぎ稲の栽培技術を各地に拡め指導しつつ、建国の偉業を成し遂げられたのが神武天皇である。「農は国の基」という言葉があるが、国家とわが国の人々の生命を守り、繋いできたものが農業であり、その中でも稲作の担う役割は大きかった。農耕生活は開墾や自然災害との戦いでもあったから、自ずから共同体を形成し、その中心となったのが神社であり、 神社は発生当初から公的性格を帯びていた。欽明天皇十三年(西暦五五二)に仏教が伝来したが、仏教は個人の悟りや死生観などを通して国民の間に浸透し、神道は自然崇拝をとして五穀の実りや国の安寧を祈る共同社会の信仰としての役割を担いつつ、神道と仏教習合していった。
〜 西洋の「騎士道」と わが国の「武士道」 〜
一方、そのような暮らしの中では義理や人情の心が重んじられ、相互扶助の精神が育っていった。今日、災害の被災者が争うことなく助け合い、またボランティア活動に勤しむ若者の姿にもその心情は生きている。
やがて社会制度や国家の仕組みが高度になるにしたがって、組織の中における道徳や規律、あるいは忠誠心が求められるようになり、後に武士道といわれる精神に昇華していった。その特質は自己尊敬 (セルフリスペクト)、自己犠牲 (セルフサクリファイス)、自己責任(セルフレスポンシビリティ)、そして惻隠の情という言葉に要約されるように思われる。
武士道という言葉は幕末から明治にかけて活躍した剣士・山岡鉄舟(後に明治天皇の教育に携わる) が初めて使った言葉といわれるが、勝海舟は『氷川清話』の中で「武士道というのは、単に侍だけの道徳ではなく、お百姓や町人、誰でもが守るべき人の道〟だ」と言っている。中世の西洋においても、封建領主階級に属する人々が、国王や封建諸侯を主君として勇気、礼儀、名誉を重んじて騎士道が花開いた。特に女性を守ることを美徳としたともいわれるが、その背景には神(ゴッド)と聖母マリアに対する殉教に通じる精神風土があったように思う。
西欧における騎士道の時代は五百年ほど続いたといわれる。明治時代にキリスト教徒の新渡戸稲造が著した『武士道』は広く欧米諸国に知られることになったが、武士道の起源すさのおのみこと やまとたけるのみことは古く、神話の中の須佐男命や日本武尊の武勇伝説にその萌芽があるように思われる。 武士道とサムライの名は美徳を備えた勇者に対する言葉として今日では広く世界中に知られ、二千年を超えて国民の間に生き続けているように思われる。
〜 おおみたからを慈しみ しろしめす皇室の存在 〜
「記紀」に記された神話の物語を通して見るわが国には、さらにもう一つの大事な精神性があったことに気づかされる。それは〝皇道”と称してもよい、より高い倫理・道徳で、それを実践してこられた日本の皇室の存在である。古く奈良時代には天皇について 〝天下知食天皇”と表現している。 「しろしめす」とは「知事」という言葉があるように知ること、知悉している意味であり、封建領主による一定の地域をわが領土として領有し、支配することではない。
神武天皇は日本全体を一つの家族国家とし高い理想をもって建国された。その後の御歴代の天皇やその皇子たちも全国を巡幸しつつ、国情を知ることに努められている。これは皇祖神である天照大神の国と国民を慈しみ、安んずる御心を継承された天命であり、それ人道”と称した。しかし私にはこのような古き良き国柄が昭和二十年の敗戦によって否定され、近年の日本社会は道義国家としての道を失いつつあるのではないかとの憂慮が年を追うごとに深まってくる。
昭和四十五年十一月二十五日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で憲法改正を訴えて自決した三島由紀夫氏は生前、「私はこれからの日本に対して希望をつなぐことはできない。このまま行ったら『日本』ではなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の富裕な抜け目がないある経済大国が極東の一角に残るであろう」と語っていた。三島氏の死から半世紀以上過ぎた今日、状況はさらに深刻化していると思われる。
しかし最近、わが国の真の歴史と民族の心情は必ずしも滅んではいないと思うことがある。それは文化や古典思想の中に生きている。それを信じて、現実はどんなに暗く絶望的に見えても、私どもは将来に自信と希望を失ってはならないと思う。天の岩戸が開き、絶望の中に光を見た時代があったように、私たちは新しい年へと踏み出したいものである。