あっぱれ!大谷翔平選手(2023/7/1)

アメリカ大リーグで断トツの人気と成績を上げている日本人の選手達。誇り!

 先に3年ぶりのWBC(ワールドベースボールクラシック)大会で、優勝の成績を残した「日本チームと選手達」だが、その後のアメリカ大リーグでも各チームの主力選手として日本人選手が活躍中である。日々私たちもニュースを聞くにつけ、誇らしく晴れ晴れさせてくれている。

 中でも「大谷翔平」選手は、ピッチャーとしても打者としても、更に走者としてもの二刀流、いや三刀流でカウントされる成績のすべてが他を引き離す好成績を残している。

 27才で人生で最高潮の気力・体力を発揮できる年ごろとは言え、毎日の生活の中でそのパワーとテンションを切らさず発揮できる精神のコントロールの仕方が抜群と評価し見習いたいところだ。

 その反面、今の日本国内に住む社会の人々の考えや行動はどうだろう。自分たちの民主的な社会を守り、力を合わせてみんなの明日の幸せを築くために難題にも力を合わせ取り組むべきなのだが、自分の思いがうまくゆかないのは他人のせいにして、逃れようとする傾向が強すぎると私は思うところだ。

 誰もあなたを批判したり取り残し隔離したりはしていないのだが、自分の思い込みで自分の殻を造って籠る傾向が、社会全般に見受けられるようになっているのだ。

 だからと言って人を襲ってはいけない、自分も周りの人も大切な命があるのだ。神戸での悲惨な一家の有りようや、近所・社会の関りの様子の報道を聞くにつれ心悼む。

コロナ感染第9波が起こっている。やはり気を抜くことなく、慎重に行動しよう!

 去る5月8日、一応世界的にも収束方向が見えるので、政府は感染症分類で、2類から5類へとランクの引き下げを行った。季節性インフルエンザ並みの扱いで健康保険で扱うとした。

 人の活動や動きも活発化し、外国からの観光客も以前の7割るくらいまで回復したかのような状況で、一応落ち着きを見せていたかのようなコロナ感染の問題だが沖縄県では第9波が押し寄せているとも言われている。これから暑くなりマスクを外しての行動や、飲食の機会も増えることだが注意しなければならない。
 
 私自身の身近なところでも県議会が6月定例議会が開催中だが、5名が陽性反応が出て自宅待機され本会議を欠席の状況が起こった。議長や更に副議長、委員長や副委員長が打ち合わせなど同席することが多いなか、次々罹患すれば会議の進行は誰にすればよいのか、笑い話では済まされないことも起こる可能性を心配してしまう。

 せっかく長いトンネルから抜け出ることができるかな・・・と、笑顔も戻ってきたところだ。羽目を外さず心がけをしっかり慎み、みんなで理解と協力で乗り切ろう!

暑さにも負けずに頑張ろう!

いよいよ梅雨明けも近くなり山開きや海開き、日本の季節の風土記をかみしめ楽しみながら身も心も健康に保てるように頑張りましょう。

庭の教え

月刊『致知」2023.7月号【巻頭の言葉】より引用
高千穂神社宮司 後藤 俊彦

国家を揺るがす  少子化問題の真因

 「風流の初やおくの田植うた」
という芭蕉の句がある。かつて司馬遼太郎氏は、「弥生時代の日本人にとって最も美しい風景は水田ではなかったろうか」と書いていた。一万年以上も続いた縄文時代から稲作農業を覚えた弥生時代の人々にとって、水田風景は新鮮な文明の到来を予想させ、薫風にそよぐ早苗はけがれなき幼子のように愛らしく見えたことであろう。 男子の成長を祝福する端午の節句の鯉のぼりの雄姿は清明の季節にふさわしい風物詩ともいえるが、近年その数が減少していることは淋しいことである。

 江戸文化が色濃く残っていた明治時代初期に我が国を訪れた外国人の多くが、「日本ほど子供が大切に取り扱われ、子供のために深い注意が払われている国はない」と書き残しているが、私共の子供の頃にはまだその残影は残っていた。 それがいまや出生率の低下による少子化が国家の危機として政治問題化しているのである。経済成長がもたらす生活水準や教育水準の向上が子供を産まない社会をつくり出すというマルサスの古典的な人口論の公理は一つの真理と思うが、私には戦後の家族制度の崩壊にも原因があるように思われる。

 我が国では有史以来、国家・社会の最小の単位は”家”であり、個という観念は根付いていなかった。英語のネーション(国)も我が国では国家と表現するほどである。昔の日本家屋には必ず神棚と仏壇がまつられていて、人は自ずから祖先との繋がりを自覚し、地域社会の一員として育っていった。何者にも関わりを持たぬ”個”というものは有り得ないのである。従って幼少年期の人間教育には家庭や地域社会が大きな役割を果たしていた。

 しかし、戦後の教育では家族制度を封建的な考えとして否定し、代わって個人の権や自由を重視する教育がなされてきた。その結果、家族の絆は分断され、家族制度の崩壊は地域社会の崩壊を招き、現在では全国の到る所で無人集落や共同体の維持が困難になってきた地域も出始めている。

家族の大切さを軽んじたままで  国の再建は有り得ない

 「たらちねのにはの教はせばけれど ひろき世にたつもとろとぞなる」
という明治天皇の御製がある。 幼年期の家庭環境や親の躾はその人の人格形成に大きな影響を与えるものである。私には子供の頃の忘れ得ぬいくつかの記憶がある。

 私が小学校低学年の雪の降る寒い日のことである。黒染めの僧衣を着た若い僧が庭に立ち、鈴を振りながらお経を唱えていた。母が礼を述べるとわらじ履きの僧は一礼をして雪道を去っていった。その情景は子供ながらに清浄な記憶として脳裏に焼きついて、後に道元禅師に興味を持つきっかけとなった。
 
 ちなみに道元禅師の作といわれる、
「 春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて冷しかりけり 」
という和歌のこころは、渡来した仏教(禅の思想)が我が国の思想として定着し発展してゆく情操的魂の土壌ではなかったかと思う。

 また、私の生家近くに一本の八重桜があり、春になると玲瓏としてまことに美しく花咲いた。家の庭には古い梨の木があり、五月頃に白い花をつけた。夕暮れ時、薄闇に浮かぶ白い花影は神聖な趣を増し、これらの花々は私に雅や幽玄に対する感受性を植えつけてくれたように思う。

 小学生の頃、長男の私を厳しく育てようとして父が無理に押しつけた剣道の寒稽古は一日でやめたが、きびきびと動きまわる剣士の姿は私の心に深く焼きついて、大学卒業後参議院会館の道場で習い始めた剣道は三年間で三段を取得した。俗に“三日坊主〟というが、僅か一日でも何かを体験することには意味があると思っている。小学校から中学校卒業まで続いた登校前の家の廊下と庭掃除には抵抗がなく、清掃はその後の神職の仕事に役立っている。

 父は負けず嫌いで、地域や人々のために生きることに生き甲斐を持っていたが、その分、母は家庭を守る苦労が多かった。辛抱強い性格で、子供の学校の成績にはこだわらず、正しく生きて健康であればよいといつも大らかであった。

 そのような両親のもとで育った私ではあるが、精神面の自立についてのみ関心があり、生活者との意識が稀薄であったから、両親には将来の生活について随分心配をかけたことと思う。

 大学の卒業が近づいた頃、何か国家のために働きたいと思っていた私に突然参議院議員の秘書になる誘いがあり、五年余り政治の世界で過ごした。その後、郷里の高千穂神社に神職として奉仕してほしいとの要請があり、神職の道に入って五十年余が過ぎた。

 私自身の人生を振り返る時、何か見えざる運命の糸に導かれたように思える。小説
『谷間の百合』で知られるフランス人作家のバルザックは、「すべての作家は処女作に向かって成熟する」と言ったが、私自身も過去との関わりと共に日々を生きている気がする。

 我が国は歴史の断絶を知らず、革命を避けて神代といま、そして神 (天)と人とが太古の昔より深い絆で結ばれている稀有の国家である。それは即ち国を構成する”家と家族”にも当てはまるように思う。血の通った家族のあり方と大切さを軽んじたままで国の再建は有り得ない。 個を重視するあまりに孤独社会を生み出すようでは、真の豊かさには縁遠い社会となるように思われる。