季節は「春」だが、心の「春」は、まだ遠し。(2010/3/1)

 毎日の散歩の道すがらでは、いろいろな花が咲き始め、いよいよ春だとの実感を得るようになってきた。厳しい寒さにも耐えながらも、何とも無かったのごとく、むしろ誇らしげに花びらを広げる自然の生命力に感動さえ覚える。

  ところが英知ある人間界はどうだろう。経済不況は人間の心を蝕み、明日への希望の灯さえ暗くさせるし、耐え切れず自らの命さえ絶たざるを得ない方向に向かったり、人のせいにして自分を正当化することに、あまりにも明け暮れし、他人も我もが頑張って生きようの精神が、薄れていないだろうか? 心の春はまだ遠いと思えてならない。

いよいよ残す(県議会)任期も1年だ。最後まで誠意ある活動に努めたい。

 早いもので、県会議員としての任期も最後の年を迎える。
負託をうけた県民の期待に応えるために、厳しい環境だからこそ一層頑張らねばと思う。

 特に、先の選挙で公約した「松山分水反対」は、地元の将来ともに生活圏を守り発展させるために、今後ともしっかり姿勢を貫く。これは西条のためだけではなく松山のためにも、無理や無駄を抑えさせることにも役立つことだろう。

 山鳥坂ダムの建設の是非が、政権交代し特に注目されているが、松山の水資源の確保も大きな建設目的であったが、松山の引受け拒否により不要論にも大きな影響を与えているが、松山の身勝手な判断にも私や県民は納得しがたい。生活用水の確保や下水道の処理は市の行政事務の問題であり、市の都市政策の基本であり最大の問題なのだ。まず自らの行政区域の中で確保を求めるべきだ。

 県行政がこの問題には公平であるべきで、先棒を担ぐと余計に、地域間対立を煽ることになる。 先に平成19年の6月定例県議会でも私の主張や意見を述べたが、この議会(平成22年2月定例県議会)でも、再度、意見表明をはっきりしておく。
地域の経済的自立政策についても、雇用の確保を目指して一層頑張りたい。

「政権交代」により、混乱が続いているが、だからこそ立ち位置をしっかり見据えて頑張らねばと思う。

天命を信じて人事を尽くす

月刊誌「致知」の《巻頭の言葉》より抜粋引用 =ウシオ電機会長 牛尾治郎

『創業期に迎えた危機』

「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があります。しかし私の体験に照らせば、「天命を信じて人事を尽くす」という言い方のほうがしっくりきます。本当に厳しい状況下では、天命を信じなければ人事は尽くせないというのが私の実感なのです。

 ウシオ電機を創業して二年目の昭和四十年、最大の取引先であった理研光学工業(現リコー)が経営危機に陥りました。当時社長を務めていた市村清さんは、社外活動にも積極的で、マスコミにもよく登場するスターでした。ところがカメラに代わる主力商品と目していた複写機で大きな流通在庫をつくってしまったのです。取引先は潮が引くようにリコーのもとを去っていき、私も決断を迫られたのでした。

 市村さんには、私が亡き父の遺した牛尾工業に入社してほどなく、初商売をつけてもらった恩義がありました。

 それは昭和三十四年、私は複写機の光源に使うランプをリコーに直に納入したいと考え、父が戦後公職追放に遭う前に副頭取を務めていた神戸銀行の銀座支店へ相談に行った時のことです。

 佐藤支店長は私の顔を見るなり「坊ちゃんではありませんか」と懐かしそうに微笑まれました。幼い頃の私に会ったことがあるというのです。そして、自分がこうして銀座支店長にまでなることができたのは、父の引き立てのおかげと、すぐに市村さんに引き合わせてくれました。ぜひともご恩返しをしたいという佐藤支店長の切々たる訴えに市村さんは「いいお話ではないですか」と心を動かされ、すぐに商談が成立したのでした。

『祈りにも似た真剣さで』

 その市村さんが窮地に陥っているのを看過するわけにはいきませんでした。ところが運の悪いことに、もう一つの大口取引先であり、映画館向けのランプを納めていたN社も時期を同じくして経営危機に陥ったのです。リコーとN社の二社を合わせると、当時のウシオ電機の売り上げの五割近くにも上っていました。

 私は自宅で一人今後の算段をしました。最悪の場合でも私財をはたけば社員の退職金くらいは何とか都合がつく。もともと経営者になることは本意ではありませんでした。ここで精いっぱいやった結果、会社が倒れたら、自分に経営は向かないのだと踏ん切りもつく。とにかく天命を信じて人事を尽くすしかないと腹が決まりました。私は市村さんのもとを訪ねて言いました。「当社はリコーさんに最後までお付き合いします」

 市村さんはポロポロと涙を流して私の手を握り、再建を誓ってくれました。すぐにリコーのメインバンクの三菱銀行(現三菱UFJ銀行)に行き、面識のあった田実渉頭取に支援を求めました。リコーの将来性を熱く語り、「もし市村さんが倒れたら、自分が社長になってもやり抜きますよ」と訴えました。いま振り返ると顔が赤らみますが、田実さんは若い私の話に熱心に耳を傾け、支援を約束してくれました。N社のメインバンクであった住友銀行の岩澤正二副頭取には、万一の場合はN社の社員を引き取ることを約束し、協力を得ました。

 両者の先行きはいずれも五分五分。私はそこで初めて、人が天に祈る気持ちというものを理解しました。天命を信じて人事を尽くしたら、後は祈りしかないのです。幸い、リコーは市村社長の奮起により三年で立ち直り、N社も従業員の半分を引き受け、新会社を設立して乗り切りました。

 父の死により入社した牛尾工業から、不採算部門として切り離され、ウシオ電機が発足したのが三十三歳の時。過剰在庫と含み損を抱え、マイナスからの船出であった上に、翌年には早くも存亡の危機を迎え、自分はつくづく不運だと思いました。それでも天命を信じ、逃げずに自体を打開した結果、五年後には上場を果たすことができました。ウシオグループのクリスティ社(米国本社)が複合型映画館を中心として普及するデジタルシネマプロジェクター・3D映写機のトップメーカーとして成功できたのも、N社に代わる新会社設立がきっかけとなりました。

 いま、この厳しい経済環境の中で多くの経営者が苦境に喘いでいます。こういう情勢下では、祈りにも似た真剣さで事態の打開に取り組むこと。天命を信じて人事を尽くすしかないということを、創業時を振り返り改めて肝に銘じている次第です。