やっぱり地球がおかしいぞ!(2011/11/1)
世界各地で自然災害が発生!地球がおかしい?
日本では3月11日にM9という過去に経験のない地震が発生、これが津波を引き起こし東日本は大打撃、2万人に及ぶ死者行方不明者の犠牲を受けた。
また、東京電力の福島第1原発では津波により、非常電源も失い、水素爆発を起こし、さらにメルトダウン、未だに収束の見通しも明確に立っていない。未曾有の災害が起きている。
タイ国のバンコク近郊では、水害により工場団地にも浸水、400社余の日本関連企業の生産もマヒしてこれも回復に何ヶ月もかかると言う。
中東のトルコでも東部に大地震が起き何百人もの死者が出ている。
どうも地球がおかしく動いているのではないだろうか?
これはあくまで私の仮説の話ではあるが・・・。
地球の引力も狂いが生きたのか?
またそれにより引力が変化を起こし、人間の脳の働きを狂わせているのだろうかとも思えるように、世界の政治や、経済、社会のあらゆる面で、想定外や常識はずれの衝突が起き、不幸の連鎖を生んでいるようにも思えてならない。
神のみぞ知るところだろうが、物質的には貧しくても心豊な「人間力」溢れる地球になることが望ましい。
もう今年も残り少なくなる、何とかしてくる年に希望をつなげたい。
なんだかんだで、もう今年も残りが少なくなる。震災被災者の生活もお盆までには仮設住宅に全てを収容し、希望を見つけ出せる環境づくりが進むものかと、総理の言う事を期待したが、収束できないのでやめてしまって総理も交代してしまった。復興対策予算も早期に成立を図り、実行に移し、新しい正月には何らかの明るい見通しが立ち、先に希望が持てるようにしなければ、本当にこの国と国民は疲弊してしまう。
先月5ヶ月ぶりに被災地へ伺ったが、まだまだ、どこがどこまで解決されたんだろうと復興の成果など殆ど見られない。また場所によって片付けの進行状況でさえ大きな差が有る。
また今月も県下の自民党員の希望者と訪問する予定である。この悲惨な状況を身体で感じる事が、次への備えであり、被災者への理解と協力に繋がるものと信じる。
誰の責任でもない、みんなの責任でこの国を社会を守ろう。
紅葉や自然の恵みを楽しみ、感謝する心も持ちたい。
水到れば渠(みぞ)成る
徳を積めば自ずと事は成るもの
月刊誌「致知」の《巻頭の言葉》より抜粋引用=論語普及会学監 伊與田覺
『人材と人物』
会社など、組織では「人材」「人財」という言葉が用いられ、才能があり、大いなる働きをする人のことを意味します。
これに対して「人物」という言葉もあります。「あの人は人物だ」という時、それは単に才能のある人をいうのではありません。才能と徳を併(あわ)せ持った人、才能もあるけれども徳のほうが勝っている人を指します。
西郷隆盛と勝海舟は、ともに明治維新の大立役者として並び称されています。
西郷は新政府においては参議であり、高い収入を得ていたにもかかわらず、非常に質素な生活をしていました。手にしたお金に執着することなく後輩や世のために放出していたからです。だからといって決して金銭に疎(うと)かったわけではなく、武家の家に育ちながら算盤(そろばん)が非常に達者であったといいます。幕府との戦に向かう際も、兵隊の管理など様々な業務を的確にこなして随時本国薩摩に報告しており、卓越した実務的能力の一端が窺(うかが)えます。ただそれ以上に徳が優れていたのです。
勝も徳を備えた非常に立派な人であったことは確かです。しかし明治維新後、新政府から子爵(ししゃく)に叙爵(じょしゃく)の内示を受けた時に、「我もまた人並みなりと思いしに、五尺に足らぬ四尺(子爵)なるかな」と、爵位(しゃくい)に対する不満を歌で皮肉って突き返したという逸話があります。勝はどちらかといえば、徳よりも才のほうが先走る人だったように思われます。
中国古典の『大学』に、
「徳は本(もと)なり、財は末(すえ)なり」
という言葉があります。これは『大学』に限らず東洋思想の根幹をなす考え方です。
道はもともと天地宇宙のルールを表します。そのルールを人が素直に受け入れ、実行したときに、その道は徳になるのです。
財という字の「貝」はもともと貨幣の代わりに使われていました。これに「才」がついて財となりますが、「才」には働きという意味とともに「わずか」という意味もあります。つまり財というものは全体からするとわずかな存在であり、本末からいえばあくまでも徳が本なのです。
これは才に木偏の付いた「材」についても同様です。単に才能があるだけでなく、徳の勝っている人が人物と呼ばれて一目置かれるのは、そういう背景があるのです。
『報いを求めずに積み上げるのが真の徳』
『大学』にはまた、
「惟(こ)れ命(めい)常に于(おい)てせずと」
というくだりもあります。命というのは天の命であり、働き、命令といってもいいでしょう。人間は何事も自分の働きで得たように思うものですが、実はすべて天の働きによって得られたものばかりです。そして、一度得たものでも、その人の徳が薄くなれば失われてしまうのです。
かつて私は、あるものをつくろうと思い随分苦心したことがあります。ちょうどその時、久しく親炙(しんしゃ)を賜っていた安岡正篤先生が私の地元、大阪に来られたので、厚かましく助言を求めに参りました。
「先生、私の思うものはどうしたらできるでしょうか。一句で成るような言葉はございませんか」
と尋ねると、先生はすぐに筆を執られて、
「水到渠成」
の四文字を半切(はんせつ)に揮毫(きごう)してくださいました。そして、
「水到れば渠成る。あまり深く考えずとも、水が来れば自然に溝ができるものだよ」
とおっしゃいました。
お礼を述べて辞去した後、これにはきっと深い意味があると思い辞書を引いてみたところ、水という字には徳という意味もあることが分かりました。つまり、徳を積めば自ずと事は成るものであり、先生は、おまえにはまだ徳が足りないから、慌ててものをつくろうとしてもできないのだと示唆されたのです。
以来私は、己の徳を高めるべくひたすら努力を積み重ねてきました。
腹に一物あっては、いくら善を積んでも本当の徳は備わりません。逆に「水去れば渠敗(やぶ)る」(水がなくなれば溝も自らなくなる)で、徳がなくなればせっかくつくったものも失われてしまいます。
報いを求めずに積み上げていくものこそが、本当の徳に繋(つな)がることを心しなければならないと思います。