もう年の瀬、あっという間の1年だ(2011/12/1)

思い残しの無いよう、今年片付るべきことは年内に済ませておこう

 今年を振り返ると、本当に早い一年だった。最大の目標は議会の改選期となり、4期目を目指して頑張ろうと後援会の皆様の励ましも戴いて、正月から選挙に向けての活動も取り組ませて頂いた。
おかげさまで4期目も立派に当選させて頂いた。
 3月11日、任期最後の定例県議会の最終日、皆さんとのお別れ会の計画していたのだが、それどころではなくなった。午後3時前ニュースで三陸沖での地震が報じられ、津波の大災害が報じられ、日本中がパニック状態となり、未曾有の出来事と多くの被災者のことを思えば、選挙どころではないとの空気さえ生まれ、街宣車も自粛、いわゆる公費で賄われる選挙に架かる費用を節約し、被災地支援にとの方針に選挙の取り組みも方針を立て直し実施した。
 
 私は今でもこのような事態の中では取るべき行動として、正しい決断だったとの信念だ。
選挙後早く現地に行き支援できる事は何かを確かめたいと、5月早々に県でも集められていた支援物資や自民党愛媛県連としての支援物資を調達し、仙台・南三陸・気仙沼・浪江町と訪ね避難所に届けさせて頂いた。
災害支援についてはその後も気になりながら、やっと11月に再度被災地を訪問、8ヶ月が経っても何ら復興の兆しも見えない状況に、長期戦の取り組みが必要と痛感した。
仕事も、家も、家族さえも奪われた人々の、痛みをわきまえた今後共の支援が大切だ。
 
 ヨーロッパではギリシャ危機、中東では体制崩壊、中国の台頭などなど・・世界情勢も厳しい、加えて円高などで日本経済は益々低空飛行の状況だ。
世界の君臨する力を蓄えているかに錯覚していた我が国は、政権交代で政治手腕の未熟さが益々露呈し、世界への信頼度はますます危うい。
1国では生きてゆけないのだ。世界に期待され信頼される国となり、私達の安定した生活を築くためには、今こそ、日本人としての気概をお互いの絆で高める必要がある。
 
 誰が悪いのでもない。一人一人が責任感を強く持ち、自立の努力で、日の丸の御旗を推し立てて、力強く歩もうではないか。
地方の自立できる方策を求めて、私も今与えられた使命と役目を、しっかりとやり遂げたい。充実した日々を送れてありがたく感謝もしている。

土光敏夫  その人物と生き方に学ぶ

月刊誌「致知」の《巻頭の言葉》より抜粋引用=ウシオ電機会長 牛尾治朗

『君たちの原案を通すことが私の役割だ』

 政治経済の混迷ぶりを憂慮して、 かつて国の行財政改革で大きな実績を上げた
土光敏夫さんが改めて脚光を浴びています。

 私が土光さんとご縁をいただいたのは、 昭和六十年に開催された 国際科学技術博覧会(つくば博)の時でした。
 つくば博は、当時まだ安い標準品の輸出で 成り立っていた我が国が、新たに科学技術立国のイメージを 世界に発信していく目的で企画されました。
 会長に就任した土光さんのもと、 私は基本構想委員会の委員長という大役を仰せつかったのです。
委員会を開催するにあたり、 土光さんは三十五歳も年下の私に、
  「勉強のために若い君たちが運営する委員会に  ぜひとも出席したい」
 とおっしゃいました。
 ただし、絶対に自分には発言させないでほしいとのことでした。

 それでも実際に委員会が始まると、
 「土光会長はこれについてどう思われますか」
とゴマすりで発言を求める人が何人かいました。 土光さんはそれには応じず、
「せっかく君たちが一所懸命に議論しても、 自分が話せば意見がそっちへ流れてしまう。 自分の役割は理事会での反対を払いのけて 君たちの原案を通すことだから、 頑張って議論を尽くしてほしい」
と説かれたのです。我われ委員会のメンバーが 奮起したことは言うまでもありません。
 委員会を欠席された時は後から必ず面会を求められ、 会議の内容について熱心に質問を受けました。
土光さんが手にする議事録には いつも赤線がびっしり引かれていました。
石川島播磨重工業や東芝の再建に 取り組んでおられた頃の土光さんには、
その猛烈な仕事ぶりから 「鬼の土光」のイメージを抱いていました。
 
 しかし私が出会った頃の土光さんは、 若い人の引き立て役に徹する 「仏の土光」でした。
 
 自分の使命や、年下の我われにも、 真摯(しんし)で謙虚な姿勢を貫かれた姿には
心底感銘を受けました

『率直垂範の一生に倣う』

 基本構想委員会からの答案を終えたのが昭和五十六年一月。
それからひと月もしないうちに土光さんからお電話をいただきました。
第二次臨時行政調査会(第二臨調)の会長を務めることになったので、また手伝ってほしいとのことでした。

 国の抜本的な行政改革を審議するために立ち上げられた第二臨調でしたが、会長就任の要請を受けた時、土光さんは既に八十四歳でした。
最初は固辞していた土光さんが受託したのは、その数年前に雑誌で発表された「日本の自殺」という論文に、かのローマ帝国はパンとサーカスによって滅びたと記されていたことも念頭にあったからのようです。
巨大な富を得たローマ帝国市民は、食料をただで与えられて労働を忘れ、サーカスに代表される消費と、娯楽に明け暮れていたところで蛮族の侵入を受け滅びたのでした。
自立自助の精神を失ったローマ帝国の姿は日本の実績と重なり、国の将来に強い危機感を抱いた土光さんは、その雑誌社の許可を得て数万部ものコピーを企業関係者に配布した経緯があります。

 私は専門委員の一人として、土光さんのもとへ部会での審議の内容を報告に伺うと、土光さんはいつも入り口まで私を出迎え、「私が無力なばかりに、君たちの原案を思うように通せず本当に申し訳ない」と深々と頭を下げられました。
改革の抵抗はそれほど激しかったのです。そうして頭を下げられると、土光さんに一押ししてもらおうと考えていた案件の話も、切り出せないままに持ち帰るほかありませんでした。

 とりわけ印象的だったのは、審議の内容が監督官庁に何度か漏れ、土光さんが憤りを顕に我々に説かれた言葉でした。
「皆さんをこれだけ信頼しているのに、会議の内容を漏らしている人がいることは甚だ遺憾だ。改革が進まないことにかけて官の尊大さを民間は批判するが、それは違う。民が卑しいから官尊民卑になるのだ」
土光さんに恥をかかせるわけにはいかない、周囲は次第にそうした空気で包まれるようになり、第二臨調はいつしか「土光臨調」と呼ばれるようになりました。
加えて、夕食にメザシ一匹という土光さんの質素な暮らしぶりがテレビで放映されるや、「メザシの土光」への共感とともに、行政改革実現への国民の期待は一気に高まりました。
その結果実現した国鉄や電電公社などの民営化が、今日の日本の繁栄をもたらしたと言えます。

 最晩年まで改革に率先垂範で取り組まれた土光さんに学び、天気を迎えた我が国の将来のために私自身も微力を尽くしてまいりたいと決意を新たにしています。