あなたは龍を見たことが有りますか?(2012/1/1)
昨年は色々有りました。今年は穏やかに腰を据えて立ち位置がしっかり定まるようになりたいし、したいものです。
3月11日に未曾有の地震と津波で、東日本で約2万人の死者・未だに行くえ不明者を出した。加えて、東京電力福島第1原子力発電所で、メルトダウンさらにはメルトスルーにいたるとんでもない大事故が発生、未だに収束の明確な見通しさえ立たない状況で、世界中から支援の手も届いているが、経済も含め大きなダメージを発している。
私も被災地へお伺いし、厳しい現実の姿に接し、今もって言葉にさえ苦しむ状況だ。あの惨状の裏表は、当事者にしか分からない傷が殆どだろう。簡単に慰めればすむ話ではない。そこをよく理解しようではないかと言いたい。
今こそ、みんなで痛みを分かち合って、立ち直る日本民族魂を発揮したいものだ。
11月にブータン国王が来日し、被災地の子供たちに「あなたは龍を見たことがありますか?」と問いかけ、魔物から救ってくれる龍の力を得て、頑張ろうと激励されたとの報道があった。(ブータンの国旗には白龍が描かれている)
私はこの話を聞いて感銘を受けた。(さすが幸せ度世界一の国王の理念を持った話だ)日本でも魔よけに青龍が描かれている。
この「龍は自分の心の中に棲むものであり、色々な体験を重ねて大きくなってくるものだ、それを育てる心を持ちましょう」と説明されたというが、何と含蓄のある話だろう。
時あたかも今年は龍年だ!みんなで龍を見つけ、育てようではないか!
それに引き換えこの国の国会のありようはどうだろう。龍を育てなければならないのに「どじょう」を育てるそうで、都合の悪いときは土の下にもぐりこんで逃げてしまう。
あたかも龍を呼び寄せ昇竜するが如くの威勢はどこへ行ったのやら。
ことごとく国民の期待を裏切るような事で、幸せ感など感じられるはずが無い。
彼ら期待するに値しない、国会議員を当てにしたのがいけないのだ!
衆議院の選挙もあるだろう。早く比例代表をやめ定数を見直せ!
責任は国民全体で取らなければならないのだと、自分たちに財布は守り、不能ぶりは棚に上げながらも、これから増税へ向かって国会は頑張ろうとしているが、今度こそ自分の責任で、増税よりも行政効率を見直して財政を再建させ、景気を回復させ、国民の生活力を高める政策を実行する、意思と理念のある政治家を選ぼうではないか!
かく言う私も、昨年4月に西条市民の皆様のご支援をいただいて、4期目の県議会議員を務めさせていただいているので、肝に銘じて基本をブラスことなく、目線と立ち位置を誤ることの無いように、心して務めたい。
世界情勢も予断が許されない!
国家の危機管理や安全保障もしっかりと!
ヨーロッパ・アメリカも含め景気は世界中悪い。こんな中でアメリカ大統領・ロシア大統領・中国国家主席・韓国大統領・北朝鮮の後継体制などなど、世界の指導者の交代(選挙)も多い、日本の中でゴタゴタしている時ではない世界に目と神経を張り巡らせて、我が国の平和で安定した生活が確保できる道を、しっかりと誘導する政治力も大いに問われる年だろう。
大きな視野と了見を持って、小さなことにも心を配り、嘘偽りの無い
生き方をみんなで確かめましょう。絆を大切に がんばろう!
生と死の狭間で、いまを真剣に生きる
― どくとるマンボウの北杜夫逝く
-月刊誌「致知」の《巻頭の言葉》より抜粋引用=アサヒビール名誉顧問 中條高徳
『人生を探求した旧制高校』
秋の訪れを肌で感じ始めた10月24日、『どくとるマンボウ航海記』(1960年)、『楡家の人々』(1964年)、『輝ける蒼き空の下で』(1982年)などで名を成した北杜夫があの世に俄かに旅立った。
彼は歌聖とも称された齋藤茂吉の息子で、本名は齋藤宗吉といった。
戦後の旧制松本高校をともに過ごした仲間であり、たった2日違いの同年であっただけに、彼の死は他人事とは思えなかった。
しかも同じ頃の仲間であり、北と無二の親友でその作品に大きな影響をもたらした辻邦生(作家、学習院大学元教授。代表作『西行花伝』1995年)も10年ほど前に筆者と同じく心筋梗塞で倒れ、鬼籍に入っている。彼も傑作な男で、医者になろうと理科乙類に入学したものの、日本アルプスの大自然や、トーマス・マンの研究で有名な望月市恵教授(松本高校1回生)に憧れ、分科乙類(ドイツ語専攻)に転科し、何度もドッペって(落第)、北より先に入学し、北より1年遅れて卒業し、東大に進んだ傑物であった。
辻と北との無二の親友形成は、思誠寮生活(学生寮)が生み出したといえよう。
寮は完全自治であり、何人からも侵されない自由の領域であった。部屋中、天井に到るまで、天下国家を憂える落書きで埋まっていた。
二階から小便をし寮雨と称して憚らず、弊衣破帽、警察と産婦人科の看板を掛け替えるなど日常茶飯事であった。それでも、彼らは将来この国のリーダーになるとの市民の深い認識があったればこそ、そのような行為に対する許容度は高かった。
北杜夫は、旧制高校生は勉強しなかったと度々発言しているが、間違ってはならない。教授の課す科目に忠実でなかっただけのことであり、日本アルプスの山に心酔しひたすら山に籠ったり、トーマス・マンの虜になり原書と対峙したり、哲学に沈潜し、人生を探求するものが多かった。総じて高校生の読書量は想像を超えていた。
北が物理の試験答案に「恋人よ/この世に物理学といふものがあることは/海のやうにも悲しいことだ/僕等には/クローンの法則だけがあれば澤山だ/二人の愛は/距離の二乗に反比例する/恋人よ/僕等はぴつたりと抱き合はう」(旧制高校記念館蔵)とだけ書いて提出。教授は最低ではあるが及第点をつけたという。
筆者も最初の夏休みにドイツ語での日記提出を命ぜられた。
「日記は他人に見せるものにあらず」とだけ書いて提出したら、丸山武夫教授(のち東大教授)は、「今しとしとと雨が降っている。この自然の如く素直たれ」と赤ペンで諭し合格点をくれた。
一高の藤村操も「人生不可解」と叫んで華厳の滝に身を投じたし、筆者の同級生福部慎一は白馬で遭難し遺体も出ない。筆者を慕っていた折井悌朗は自ら命を断った。
筆者は彼を救うことが出来なかったのが無念でならない。全国の旧制高校生に慕われた「蛭公」こと数学の天才蛭川教授は校内の弓道場に住み込み、荒縄を帯代わりにして仁王様のような教授であった。旧制高校の廃校が定まるや、辞表を出し、近くの小学校の先生に化けた。
『致知』の読者よ、奮起されよ』
当時の旧制中学校は全て旧制高校に大きな夢を描いていた。合格が難しく、二浪も三浪もいた。詩化し、高校の定員は帝大の定員と等しく設計されていた。明治人の大傑作と思う。
合格すれば天下を取ったも同然。だから若者達にとって人生探求の恰好の場であったのだ。その明治の大傑作たる旧制高校は占領軍によって廃校となり、新制大学に化けた。
それから既に六十年。これらの名物教授たちは悉く鬼籍に入れられた。
学んだ生徒を拾ってみると金融界だけでも、堀田庄三住友銀行頭取、降旗英弥同銀行副頭取、峯村英薫大和銀行会長(いずれも二回卒)、井上薫第一勧銀頭取、篠原周一協和銀行頭取(五回卒)と絢爛豪華だ。
だが世の常、全員が死して久しい。
徒に過ぎし日々を追慕しているのではない。北杜夫の如く最後の卒業生たち全てにあの世への旅立ちの日が迫っているのだ。明治の人達が営々築いてきた人づくりの場が総崩れになる日が迫ってきた。これが筆者の心を限りなく苦しめる。
国思う国民もリーダーに人なきを憂えている。エリート教育は差別なりとの価値観がいまだに尾を引く。新学制の下では「時務学」のみに徹するところ多く、よほどの自己啓発力のない限り立派なリーダーは育つはずがない。
読者は『致知』の存在意義の意味するところと、使命の高さに気づかされたであろう。
筆者は北杜夫の死にあたり、まさに生と死の狭間に立って、この民族の栄光のために、いまを渾身に生き抜くことを誓う。『致知』の読者よ、奮起されよ。