副議長に就任、感謝し、頑張ります(2012/4/1)

愛媛県議会第97代副議長に「明比昭治」就かせていただきました!
第100代の「岡田志朗」議長(52)の年上の女房役として、行動力のある議長を支えて、信頼される県政運営に努めます。

 平成24年度がスタートだ。愛媛県では中村時広知事が就任2年目と成るが、若さもあり行動力が抜群で、県民力を向上させるため、愛媛のあらゆる分野の産品を、そして自然や歴史的優位性を積極的に内外にアピール、トップセールスに東奔西走、まさに猛スタートダッシュで離陸を目指して頑張っている。
この推進力を補佐するために副知事を2人制にし、さらに部長級の「営業戦略監」をおいて『愛の国、えひめ営業推進本部』を設置、知事の営業力をサポートし、県民とも繋いでゆく。

国のゴタゴタ、モタモタに振り回されていたのでは地方は沈んでしまう。

議会も知事と一体になって、あるときは注意を喚起しながらも、行動しなければならない。そんな意気込み溢れる平成24年度とするため、大事な役目として頑張りたい。

 先の23年度は自民党愛媛県連で「政調会長」として務めさせていただき、長引く世界経済不況、さらに東日本大震災と東京電力福島第1原子力発電所の爆発メルトスルーの大事故対策と、まさにてんやわんやの政治状況の中で、愛媛として今やらなければならない、何が大事なのかを考え取り組ませて頂いた事は、この上も無い経験であった。

 伊方原発の再稼動にかかる判断がこれから大きな山場を迎える重大な決断が求められよう。
だが現に発生している事故の収束も、対策も国民に明らかな説明も無く、原発の稼動を管理・検査してゆく行政組織もいまだ明確でなく、同意を得るべき地元自治体の範囲も広げられるべきだが明確でない。このような基本的な事柄を国民に対して示さず、説明も無い状況では判断も出来るはずがない。技術的なことで、さも安全で心配が無いが如くの説得をしようとしても、安全神話が崩れた今、説得力はない。

 国会では税と社会保障の一体改革のため、消費税の増税の是非に議論が集中しているが、東日本大震災からの復旧・復興は一定の予算を組み「復興庁」を作ったから良いというものではない。いまだに復興が遅々として進まないのだが、もっとスピードを上げるべきだ。あのうず高く詰まれたガレキを前にしては何も進まない。

 原発問題の一方で、原油高の問題を引き起こし、長期低迷していた景気が、史上最高値が続いた円高が、少しだけ世界が安定したために、回復の兆しが見え始めたにも拘らず国内事情の好転の兆しは無い。このまま行けばますます企業は海外へ流出するだろう。
国内で雇用や所得の安定確保はもっと悪くなるのだろう。
TPPの行方がこれにも大きな影響を与える事だろう。
北朝鮮・中国・韓国・そしてアメリカとの関係、とりわけ国益と安全を確保する外交や防衛は万全だろうか?“おべんちゃら”や“柳腰”では務まらない話だが、見るも無残な今の政権だ。

他人をせめても始まらない、自助の思想を高めよう、共助の思想を広めよう、公助の思想を見直そう。

衰亡の兆しを見過ごすな =世直しは箸の正しい使い方から
   ― 十八歳以上で正しい箸の持ち方ができる人は54%という ―

月刊誌「致知」の《巻頭の言葉》より抜粋引用=アサヒビール名誉顧問 中條 高徳

『旧家の慎み』

 2012年新春特別講演会「人間力を高める」で壇上に上った日野原重明先生の百歳の弁に、集まった『致知』の読者は感動に引きずりこまれた。
 だが常人の容易にたどり着ける領域ではない。

 筆者も前回当欄で僚友・どくとるマンボウこと北杜夫の死を悼んだが、1月17日には戦後慰霊行事などでご一緒に汗を流してきた富士通元会長の山本卓真氏が逝去された。兄上が振武特攻隊の隊長をして散華された陸士の仲間であった。「一燈を提げて暗夜を歩く」。筆者も授かった命は限りなく大事にはするが、命果つる日も常に覚悟して生きていかねばならない。

 筆者の生家は田舎の素封家だから大したことはないのだが歴史は古い。
家の中の生活ぶりは口固く、めったに他人に語らない暗黙のルールがあった。
旧家には攻められた時に守る城もなければ、寺でさえ僧兵がいたのに、賊に攻められても戦ってくれる侍すらいない。

 自分たちが立派に生きて尊敬され、いささかなりとも嫉妬されたり恨まれたりすることのないように、自らを磨いて生き抜くのが旧家存続の鉄則であった。
幼児の頃はこのような旧家の存続の切ない背景は分かろうはずがないから口が軽い。

 筆者の家の信州では魚を食べて年を越す風習がある。それを「お年取り」とよんでいて、毎年必ず富山氷見から鰤が届いた。
山に囲まれた信州の旧家にとって自慢の種であった。
しかし親からは、ご先祖様のおかげで食べられるのだと感謝を説かれ、友達には絶対話してはならないと口止めされた。
幼い子供にはその意味はよくわからなかった。

 秋の取入れが済むと小作人が次々と新米を蔵に収納に来た。子供にも小作人を見下すような言葉は絶対許されず、小作人も大きな玄関の板廊下でお茶を飲み、一人たりとも部屋に入ったのを見たことがない。
小作の分限が身についていたのだろうか。

『箸の使えない現代人』

 このような環境だから、我が家の幼児の躾は徹底していた。祖母と母が躾の役をもっぱら引き受けていた。
 祖父は既に亡くなっていたが、周囲の大半がまだ着物の時代であったのに、フロックコートや山高帽氏、護身用のピストル、オルゴールが残っていた。
 食事は朝、晩は全員揃ってするのが常であり、漆塗りの蓋つきのお膳、つまり箱膳であった。
父親のは戸主膳と呼び一回り大きかった。

 食事のルール、とりわけ箸の使い方を美しくすることが躾の基本だと考えていたようだ。
箸の伝来は七世紀の聖徳太子の頃だと信州の老母が教えてくれたことに、今も驚く。
お寺の住職から教えてもらったのであろうか「仏様と餓鬼」の話もしてくれた。
仏様は長い箸ですべての人にご馳走を配り、餓鬼はご馳走を自分のために集めようとするが、あまりに長い箸で自分では何も食べることができなかった、とわかりやすい例えで「我利我利亡者」と教えてくれた。

 普通の子供と異なり、筆者の最初に覚えた漢字はこの六文字であった。
祖母の特訓で箸の正しい使い方を身に付けた。
戦争ごっこで仲間にそれを教えたら、ガキ大将の権威がハッキリ上がった。迷い箸、探り箸、刺し箸、撥ね箸などの禁じ手も教わった。

 最近の内閣府の発表によると、親も先生も教えないので、18歳以上で正しい箸の持ち方ができる人は54%だという。
国家の大事と言わねばならない。世直しの先陣に立つ『致知』の読者はいますぐ動かねばならない。
正しい箸の持ち方のために立ち上がれば日本は変わる。