厳しい寒に耐えれば暖が来る(2013/2/1)

安倍政権スタート、まずは景気回復!

「日本経済再生に向けた緊急経済対策」20兆円を超える規模で!

 第2次安倍政権は、政策の一丁目一番地を「経済再生」と位置づけ、国の財政支出で10.3兆円、地方や民間分を併せて20.2兆円の事業規模の「日本経済再生に向けた緊急経済対策」を取りまとめ、大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略を、「3本の矢」の基本戦略とした方向性を示し、スタートした。

 政権発足以来すでに市場は期待感も含め反応し、デフレ脱却のため、円安、株価の上昇が進んでいる。まだ実際の起動もないのに反応する事は、大いなる期待感の現れであり、予算が執行され事業が動き出すと、一層確実な反応を示すだろう。2%の成長目標を堅実に達成するため、社会の動向を注視し、政策を見誤らないように堅実な実行を期待する。
ただのバラマキとなったら、大きな借金をまた後世に積み残す事になる。高度経済成長期に造られた社会資本の設備の老朽化もある。安全安心を確保し、地方資源を活用して国力を上げてゆくバランスの取れた視点を組して、国土強靭に取り組まれたい。

 また、産業競争力の強化と、イノベーションの創出も怠ってはならない。
これから我が国の進むべき国家戦略の柱として、国を挙げての支援による国富を目指さなければならない。

愛媛の底力をあげるため、知恵をだし、『協働』しよう

 愛媛の地域力を向上させるためには、この国の大きな動きに呼応して、どの地域資源を生かすか?新しい地域資源をどう生み出すか?多面的にも視点をおいて取り組むべきだろう。
いずれにしても日本再生のチャンスと捕らえ、果敢な戦略が必要だ。
新年度に向けて、理事者も議会も県民も一体になって、『協働』で「えひめ」創りに、知恵を出しあいたい。

「西条市を思えばこそ」の共通理解の上に立って、西条市を建て直そう

 こんな大事な時、西条市では12月に「市長不信任」可決され、それを受けて青野市長は「議会を解散」の道を選び、市政が混乱の渦中にある。残念でならないが、早く正常化を図らなければならない。それには市民1人1人が、冷静にことの本質を見つめるべきだろう。 市議会議員の選挙にあたっても、特に地域対立や、個人対立は絶対に持ち込むべきではない。これまで以上に、誇れるまっとうな西条市を創るための選挙にしよう。

 私達は合併後も、1日も早く地域の融和を図り一体感をもって、恵まれた資源や地理的条件を生かし、豊かで伸びゆく「西条市」づくりをみんなで取り組もうと務めている。
合併後8年は経過したが、順調に推移してきた事は、西条市を外から見ると、よき評価を得ているのだ。
先の市長選挙で、青野市長は「合併協議」の市庁舎のあり方を持ち出し、しかも進行している事業に見直しのストップをかけたことが、対立の芽となり、議員と市長の見解の相違で対立構図を生み出したのではないかと思うが、選挙の結果は出たのだからこの民意は素直に受け止め、厳粛に受け入れなければならない。誰もがそう認めていただろう。
だが、市民が納得しかね、理解に苦しみ、不安に思っているのは、青野市長が市長に就任するや、民意を聞くといっていた姿勢がまったく実行されないし、説明もなくストップをかけた事業の推進をいきなり命じた、基本的政治姿勢の変節ぶりに驚愕している事だろう。

 青野市長もよく考えれば、無駄な金のかかることをすれば市民のためにならないから、早く自説を撤回したほうが、市民のためだと考えての事だろうとは思う。
だが選挙前に最重点姿勢として訴えていた、「民意を聞き反映させる」との政治姿勢が全く示されないで、いきなり大きな政治課題を180度変えることになったのでは、あの選挙は一体何だったのかと、踊らされた市民は自らを不憫に今感じている。
もうくだらない事に関わりたくないと思っている方が多いと思うが、もうくだらない事にしないよう関わって欲しい。こんな不毛な論議をここで断ち切り、後戻りしない道を歩もう。
合併にはこんなゴタゴタが付き物でもあり、避けて通れない事かもしれないが、こんなゴタゴタを繰り返し、足を引っ張り合っていては、市の発展はない。

 2月は厳しい寒さにも耐え、「少年式」「建国記念の日」を祝い、明るい前途を誓おう。

敬怠に勝つは吉  怠敬に勝つは滅ぶ

月刊誌「致知」の《巻頭の言葉》より抜粋引用=論語普及会学監  伊與田 覺

『人と成るための確かな学問』

 成人という言葉には、人と成る、即ち、立派な人物に成るという意味があります。
立派な人物に成るには相応の努力が必要ですが、努力の方向が間違っていれば、その目的を達することはできません。
 毫という字は髪の毛、ほんの毫かという意味を含んでいます。始めのところで毫かでも方向を誤っていれば、先に行くほど目的から離れていく。
始めの毫かな違いが先に行くと千里の隔たりを持ってくるのです。
ゆえに学問をすることは非常に大切なことではありますが、始めに正しい学問を目指さなければなりません。
 何をもって正しい学問のバロメーターとするかは難しいところですが、間違いがないのは、何千年もの風雪に耐え読み継がれてきた古典に学ぶことです。
 古典は、時を経ても、また日本でも他の国でも、変わることなく通用する普遍的な天のルールを発見し、体験した古人の教えを記したものです。
その古人の代表が釈迦であり孔子でありキリストであり、それぞれに表現は異なっても、説いていることの本質は同じです。

 人間を含め、万物は天の働きによってこの世に生を受けています。
そして一人ひとりが固有の使命を持った尊い存在です。
これを「性」といいます。
 この性を十分に発揮98するためのルールがあります。
そのルールのことを「道」といいます。その道を歩いて己の性を発揮した人が、後から来る人のために、この道を辿れば必ずや目的に到達することができると説き示した道標、これを「教え」といいます。
 古典には、人と成るための正しい教えが説かれているのです。

『まずは己の身を慎む事』

中国の古典『小学』には、人間として弁えておくべき基本的な常識、自分自身を修める教え、即ち修子知人の学を説いています。
同書の内篇敬身第三には、有名な太公望の教えが記されています。
 ちなみに太公望とは、周の文王が水辺で魚を釣っている老翁・呂尚を見て、これは祖父・太公が望んでいた逸材に違いないと感じ、軍師として召し抱えた逸話から、そう呼ばれるようになりました。
呂尚は文王の期待に応え、息子である武王を補佐して見事に国を隆盛に導きました。
『小学』には、呂尚が武王に説いた次の訓戒が記されています。
「敬怠に勝つは吉、怠敬に勝つは滅ぶ」(敬しみの心が、怠りの心に勝てば吉であるが、反対に怠りの心が敬しみの心に勝つと、その結果は滅びである)
敬というのは本来、身を慎むことであり、それが人に対する時には深く頭を下げて敬うことになります。
人心の本念、つまり一番のもとになるものです。怠は怠けること、人の道からはずれた邪なことであり、敬と対極にあります。
つまり、敬と怠、どちらを向くかが吉凶存亡の分かれ道であり、吉を望み、存を望むのであれば、まずは己の身を慎み、人に対する前に自分自身になすことが肝要であることを説いています。

 古典はこのように時代が移っても色あせることのない普遍的な真理を説いています。
古臭い印象を抱く人もあるかもしれませんが、古典は決して古本ではなく、真理を悟った人が、後ろから来る人のために語り記した教えであり、立派な人物になる道標なのです。
 古くとも新しい生命を内包している古典が一人でも多くの方に紐解かれ、この国難を切り開く糧になることを願っています。