クールジャパンの実を挙げよう!(2013/11/1)

日本の往き方を見つけ出そう

 戦後猛烈にはたらき、世界第2の経済大国といわれるまでに右肩上がりに発展をしてきた日本が、バブル崩壊から約20年間も我が国はデフレ状況が続き、GDPが殆ど伸びないで、世界の他国の延び率からすれば、日本は急降下し貧しい国となってきた。

 この間、政治の役割が十分機能せず右往左往し、結果、衆参のねじれが生じ、いわゆる決められない政治で、失われた20年を過ごすことになったのも原因であった。

 そのことに気づき始めた国民は、昨年夏の参議院選挙で与党が過半数を獲得し、ねじれを解消、この閉塞感を打破するために強固なリーダーシップが求められ、一度は政権から離脱した安倍総裁が再度の登板となり、上げ潮を期待するムードも力として年末の衆議院選挙でも与党が圧勝、安定した政権を運営できる体制ができ、まず何より経済対策と金融緩和に踏み出し、「アベノミクス効果」を生み、円高の解消から、デフレの脱却、景気回復と経済成長の兆しが現れている。

 しかし、まだ入り口で都市部や大企業中心の回復基調であり、あまねく国内全般の回復感とはなっておらず、地方では逆に都市部へ吸い上げられて、疲弊する弊害もある。

 世界との市場や経済・金融も大いに関係するので、急激に回復することにはならない。
今後の日本の確固たる生きる道を開くためには、確固たる独立国として、防衛も外交も、アメリカに頼るばかりでなく、政局の安定度が危惧される中国や韓国とは、懐深く対処することが大切だろう。要は日本らしい良さを誇りと自覚を持って、世界に発信する「クールジャパン」精神を発揮してゆく事だろう。田舎にもその資源はいくらでもある。それを早く発掘し、磨きをかけ、誇りとしよう。

継続の力と感謝の心を大切にしたい

 先日来、書道、工芸、絵手紙、など文化的なものの展覧会にご案内を戴いたので、自分もボツボツ老後の趣味探しの気持ちもあって出かけた。これまでも何度か出かけたが、皆さん腕(技術)を挙げられているのに驚いた。やっぱり継続は力なりのようだ。
 暑い日もある、寒い日もある、自分勝手な都合で言い訳探しをしていては、何事も始まらないだろうし、成就する事はない。まず取り組みの姿勢が大事だろう。

 自然はもっと素直に表現する。今年の夏は異常な高温で「お米」の出来もよくなかったようだ。
だがそんな時もある、厳しい条件を乗り越えて、次世代を残すためにも精いっぱいの実りを生んでくれた事だ。この実に感謝しまた次の厳しさに耐えられる、立派な実を結ぶ芽を息吹かせてくれる。これに我われは感謝を忘れてはならない。

 「ブラジル愛媛県人会創立60周年記念式典」への参加、「パラグァイ愛媛県人会」との懇談や、現地における日系人並びに企業の視察などのため、11月7日より16日までの間、県議会より派遣される団に参加します。
(報告は12月にさせていただきます。)

道を修むる これを教と謂う

月刊『致知」2013.11月号より引用=論語普及会学監  伊與田 覺

教えを学ぶ事によって道を知り、その道に添ってゆく事で人間として完成に近づいていく

『教えの真髄を継承する』

 門弟三千人と言われ、多くの人々を感化した聖人・孔子ですが、その教えの神髄にまで至った弟子は多くなかったようです。

 孔子が、自分の学を後世に伝えるものとして期待を寄せていた顔回は早世し、孔子は「天予を喪ぼせり」と悲嘆にくれました。
 しかし程なくして、孔子は曾子という青年を得ました。曾子は決して秀才ではありませんでしたが、非常に素直であり、孔子の教えを忠実に実践する実行性に富んだ人だったのです。孔子の死後、曾子は『大学』や『孝経』等の名著を残し、期待に見事に応えて斯道の後継者と仰がれるようになりました。
 孔子は長子の鯉を先に亡くしていましたが、子思という孫がおりました。優れた素質を持っていた上に、多感な幼少期に完熟の境に在った孔子の謦咳に接しています。曾子は孔子の意を受け、全身全霊でこの子思を守り、かつ教育を施しました。やがて子思は麗しい人物として成長し、『中庸』という名著を著すに至ったのです。

 孔子の死後、弟子達の中には自説を以って立つ者もたくさん出てきました。さらに老荘など他の学派も次々と競い起こり、さながら百花繚乱の様相を呈してきました。
 孔子の教えを記した『論語』は、孔子の言行や弟子達との問答集であり、体系的な書物ではありませんでした。そこで、孔子の教えの神髄を保つために、これに系統を加え、論理的に宣明すべく記されたのが『大学』であり『中庸』であったのです。

『教えを学ぶことで道を知る』

 『中庸』は次の文言で始まります。
 「天の命ずる之を性と謂い、性に率う之を道と謂い、道を修むる之を教と謂うなり。」
順番にその意味をするところを見てゆきましょう。
 
「天の命ずる之を性と謂い」
 「天」という概念は同書の最後にも登場し、「声も無く臭も無し」と記されています。天について説明するならそれだけで膨大な紙幅を要しますが、ここでは、我われの表面的な感覚器官では捉えられないけれども、すべてを生み出すもととなる摩訶不思議な存在がある、ということだけ認識しておいて下さい。

 「命」という字には二つの意味があります。
 一つは働きという意味。天命とは天の働きであり、我われは天の働きによって生命を受け、ここに生きているのです。もう一つの意味は命令。天の命令は絶対であり、天の働きによってこの世に生まれてきた者は、全て天の命令、つまり使命を帯びて生きているのです。

 「性」とは天から与えられた特質です。桜の木と梅の木が異なるように、人間も一人ひとりに異なる特質が与えられています。天の命ずるところの性を発揮してこそこの世に生まれた意味があり、そのためにも自分に与えられた性を知ることが大切です。

 「性に率う之を道と謂い」
 性に従って歩んでいくことを道といい、道とは目標に到達するルールです。自分に与えられた性を知り、これを発揮するには独自のルールがあり、そのルールに従って自分の道を行くことが大切です。自分の道といっても私利私欲から発するところの道ではなく、天に通ずる道なのです。

 「道を修むる之を教と謂うなり」
 その道を修めていく事は容易ではなく、独力では一生求めてもなかなか到達できないかもしれません。ゆえに迷うことなくその目的地に到達するための手引き、教えがあるのです。
 先に山に登った人が、後から来る人のために自分が通ったところの枝を折って目印に置いていくことを枝折りといいます。ありがたいことに世の中には、生きながらルールを見出し、人間完成の域に迫った人たちがいます。そうした先人たちが、「この道を通れば大きな間違いはないぞ」と残してくれた道標が教えなのです。

 教えを学ぶことによって道を知り、その道に沿って行くことで人間として完成に近づいていくのです。
 先人の英知の結集である古典の教えに学び、自分の道を自覚し、この限りある人生において少しでも人間完成の域に近づいてまいりたいと念じております。