カツオが黒潮に乗れない?!(2014/5/1)

オバマ大統領来日で日米の絆を深められるか?

 アメリカの現職大統領の来日は久しぶりだった。民主党政権で周辺諸国から我が国の政権の姿勢に一貫性がないために付け込まれ、実効実績を積み上げようとされていたのだが、安倍政権となり、国益保護のための姿勢を貫き、妥協を許さない毅然とした姿勢のため、中・韓との首脳外交が進展しない状況下にあるのだが、アメリカの介在により何かが動く道筋とはなるのではないかと思われる。
 最近の中韓の思い上がったような対日世論への介入や仕向け方は、目に余るものがある。
TPP交渉においてもアメリカを相手に、引けを取らない姿勢を示しているように、我が国の主権は堂々と示し、後に引いてはならないだろう。
今が我慢の時で足元を見られるようなことをしないことだろう。

 県内に目を向けると、4月には松山市議選挙が行われ、定員43のところへ60人が立候補、激戦だったのだろうが投票率をみると前回よりも下回って最低記録となっている。
新人が台頭し世代交代は進んだのだろうが、期待した政策論争は一般的な問題ばかりで、行政合併後10年を検証し、未来への都市像を描くような論争があまり聞こえなかったようにも思う。議長のイスをめぐって対立批判と政争ばかりを繰り返すことなく、都市のありようや市民生活のありように論点と視点を是非おいて取り組まれたい。愛媛の中心都市として範を示してほしいものだ。
他ごとながら、あれほど論議してきた「松山の水」に対することを主要な政策課題として取り組むと示した候補者は、愛媛新聞のアンケート調査を見る限りでは1人もいなかったが、市民の代表がこのような市制の重要度の認識なのだから、分水議論など持ち出す必要は無いものだと私は受け止めた。

 県議会議長として1ケ月余りを経過したのであるが、いろいろな行事に顔を出させていただき県民目線の把握と、身近に県政(議会議員)を感じていただけるように心がけている。
機会を利用もしながら、県下20市町の長・議長・商工(経済団体長)を訪問しているが、気軽に話すことによって、意思疎通が何かにつけスムーズになればと思っているが、これまでのところでは各市好感を持ってお話しいただけているので、続けて実施したい。

 本来、今頃は初カツオで沸いている頃なのに、今年はまだカツオが黒潮に乗って上がってきていなく、不漁に漁師が嘆いているそうだ。
だがウナギの稚魚は昨年上がってこなかったが、今年は黒潮に乗ってたくさん上がってきたので、今年の夏のかば焼きは安くいただけそうだ。
このように自然界の気候変動が、一番予測が立たず厄介な状況を生んでいるが、これとてもともとは人間が環境破壊を起こしたことの起因が最も重要な要素だ。

 天に唾を吐くことの気付きをみんなでしよう。人任せを止め一人一人が主体者との良識ある社会人となろう。

君子は其の睹ざる所に戒慎す

月刊『致知」2014.5月号より引用=伊與田覺 (論語普及会学監)

『学び、そして覚ること』

 私たちが天から与えられた「性(せい)」、すなわち各人固有の特質を存分に発揮して人間として完成するには、その目標に到達するためのルール、つまり「道」を知らなければなりません。

 私たちに道を教えてくれるのが、優れた先人です。生きながらにして道を悟り、人間完成に近づいた人が、後から来る人のために残した道標が「教え」です。私たちは、優れた古典を通じて、先人の教えを素直に学ぶことによって道を知り、道を歩んで、「性」に到達することができるのです。

 しかし、道には近道もあれば遠回りもあり、また、自分の足の力によって歩ける道も異なります。孔子やお釈迦様の足と、私たちの足が違うのは当然です。学びを重ねていく中で、自分はどの道を歩んでいくのが一番適切かが分かることを「覚(さと)る」といいます。

 「覚」(覺)という字は冠の下に見ると書き、自分で見てちゃんと確かめることを表します。そして、学んだだけでは不十分であり、学んだことを自分が納得、理解することによって、天から与えられた道を自分の足で歩いて行けるのです。
 覚るという言葉には いろいろな漢字が当てはまり、 これらを見てゆくと、 その真意が見えてきます。「暁(あかつき)」という字を「暁(さと)る」と読むのは、 明け方になって日が射してくると、 それまで暗闇で見えなかったものが ハッキリと見えてくるところから きているようです。

 「了(お)わる」という字を「了(さと)る」と読むのは、 了わりを求めて歩み続けるところに 人間の尊さがあることを示唆している ように思われます。
 また、「悟る」の五は5本の指であり、「吾」はそれを口に当てて黙っている 様子を表しています。 口では話せないのが 本当の覚りの境地なのです。

 商売のコツを覚っている人が、 いくら言葉を尽くして説明しても、相手はその真意を本当に理解することはできないでしょう。
 そのコツは、その人が成功したり、 失敗したり、様々な体験を重ねて いく中で 会得したものであり、 曰く言い難しなものだからです。会社の仕事も同様です。 新入社員は新しい情報によく通じているでしょうが、だからといって仕事を十分にこなし切れるわけではありません。まだ仕事のコツを覚っていないからです。

 その意味では、日々仕事に真剣に打ち込んでキャリアを積み、コツ(骨)に近づいてゆくことはとても大切です。

『君子は其の獨りを慎むなり』

 道は天のルールに則ったものであり、人間が都合で勝手につくったものではありません。『中庸』という古典には次のように説かれています。

 「道なる者は、須臾も離る可からざるなり。離る可きは道に非ざるなり。是の故に君子は其の睹ざる所に戒慎し、其の聞かざる所に恐懼す」

 須臾とは「しばらく」の意です。我われは天のルールから一時も離れることはできない。離れても問題ないようなものは本当の道ではない。ゆえに君子は、誰も見てないところでも己を戒め慎んでいる。誰も聞いてないところでも恐れ戦いて、正しい道を踏んでいく。

 続いて次のように記されています。
「隠れたるより見わるるは莫く、微しきより顕らかなるは莫し」
 隠れて道に外れることを行っていても、それは外に現れる。ほんの僅かな見逃しでも、積み重なっていけばやはり外に現れる。

 「微」という字は、「すこし」「かすか」と読みます。このくらいはいいだろう、と手を抜いていると、それが積み重なって思いがけない時にポッと外に現れるものです。そういう時の反動は、始めから現れているのと違って、非常に大きいものです。こうした一挙に破滅に向かう転換点を特異点(シンギュラーポイント)といいます。

 最近は、テレビで上に立つ人が頭を下げる姿をよく見ますが、あの人は立派な人だ、と評判のよかった人が、何かの拍子に悪事がばれて、一瞬にしてその地位を失い、一生を台無しにすることがあります。目に見えない原子の中に、実に絶大なるエネルギーが蓄積されているように、微かではあっても決して小さくはない。このくらいはといって決して馬鹿にしてはならないのです。

『中庸』では次の一文が続きます。
「故に君子は其の獨りを慎むなり」

 ゆえに立派な人物、あるいは立派な人物になろうと努力している人は、独りを慎む、つまり、誰も見ていなくとも独り自らを律していく。独りを慎むことは東洋の道徳において最も重要な心得といえましょう。慎独を通じて、人間としての完成に少しでも近づいてゆきたいものです。