もうこれ以上雨は要らない!(2014/9/2)

全国各地で8月は平年の何倍も雨が降り、広島では大被害!

台風シーズンを迎え、安全の再点検を!

 8月は台風8号・12号・11号と連続して台風に見舞われ、甲子園球場での全国高等学校野球選手権大会も、開会式を2日順延して始まるという記録も作った。
何より各地に降った雨は平年8月の降雨記録の何倍、多いところは何十倍もの雨が降り、地盤は緩みもう一歩で大災害を引き起こしかねない状況までぎりぎり至っていた。

 広島では集中ゲリラの断続的な降雨により、いまだに行方不明の方を含めると、約70人余
の死亡犠牲者が出る状況で、地質(真砂土)上復旧もはかどらず、悲惨な状況が続いている。
被災された皆さんには心よりお悔みとお見舞いを申し上げる次第だ。

 この事例での反省は、夜中の集中豪雨で「避難指示」とか「避難命令」とか発令する時点でもう大被害が発生していたし、情報の伝達徹底も真夜中故に出来なかったことだろう。
警報や注意報を出すのが遅いとか、徹底が出来ていないとか批判は後からいくらでも言われるのだが、現実の対応としてはどうにもならなかったことを、理解しなければならない。
避難させていても途中で被災する危険性のほうがもっと高い状況だっただろう。

 これから本格的台風シーズンを迎えるわけだが、これまでの雨で被災を受けやすい条件は一杯に満たされている、気象予報に十分注意し、早めの対応を心がけることが肝要だろう。

「小松高校」甲子園初戦で敗れたが大健闘、今後の活躍を期待する!

 今年の夏の甲子園に「小松高校」が初出場、1塁側アルプススタンド満員の2000人をあまる応援団で、先制・加点で勝利を引き寄せていたが、9回に逆転され健闘及ばず初戦敗退となった。しかし地元小松(西条)も卒業生も大いに盛り上がり、郷土意識を強くさせてくれたことも大いに役立ったことである。今後の活躍に期待大だ。

9月議会は中村県政1期目の最終議会、知事選挙は11月16日投票!

 1期目の任期を残すところ2か月となったが、9月議会が最終議会となり、2期目への立候補の意思表示は今に明確にしていないが、この議会の代表質問では当然問いかけられるので、ここで意思は示されるだろう。

 これについてこれまで「自民党愛媛県連」はどう対応するのかについて、先の衆議院選挙で中村知事は「日本維新の会」の候補者を、松山を中心とする選挙区で応援し、自民党候補者(塩崎泰久代議士)とぶつかることになったこと。
自民党松山支部と中村知事が、松山市長時代から野党的対立関係にあることなどが背景
にあり、4月の松山市議会議員の選挙でも確執していたなど、わだかまりなく取り組めない状況に松山周辺事情があるため、ギクシャクしていたのだ。

 県下全域として知事に何を求めるかを考えた時には、100%納得・賛成はできないにしても、行動的にかつ発信力を持って、特色ある愛媛の姿を求めている中村知事の姿勢には大方の人が認めるところであり、アクティブに1期目で蒔いている種を育てて実を結ぶことが、愛媛のリーダーとしての中村知事に求められ、期待されるところだ。

 小異を捨て大同につくことの大きな心がみんなに求められることだろう。それが県民のため安心・安定の愛媛を作ることになる基本エネルギーであり、政治に求められる環境整備要件だ!

 愛媛の発展のため中村県政を支え、みんなで共に汗と知恵を出そう!

未発の中と既発の中

月刊『致知」2014.9月号より引用  伊與田 覺 ( 論語普及会学監 )

『肚のできている人 できていない人』

 喜ぶ、怒る、悲しむ、楽しむ。
こういう感情を持っているところに、人間の人間たる所以があります。
陽明学の祖・王陽明は「天下のこと万変といえども、わがこれに応ずるゆえんは喜怒哀楽の四者を出でず」
と言っています。
生活の様々な場面で喜怒哀楽の感情が現れないということは、生きた人間にはあり得ないことです。
『中庸』という古典に、「喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂い」という言葉があります。
喜怒哀楽の感情が、外に現れずに内で統一されている状態を「中」といいます。

 例えば光の色について、私たちは普段ほとんど意識することがありませんが、プリズムを通せば鮮やかな7色に分解されます。
光はそういうものを含んではいるけれども、平生はそれが統一、調和されており、それぞれを個別に認識することは出来ません。
喜怒哀楽も同様に、普段は各々が単独で外に現れずに内にあり、これを「未発の中」といいます。

 上手な噺家は巧みな話術で笑いの渦を巻き起こしたり、泣かせたり、観客を自由自在に操ります。それまでしかめっ面をしていた人が話を聞いて大笑いするのも、そうした感情が内にあるからです。
 
また、普段から物事に動ぜず、怒っても仕方のないようなことには平静を保っている人は、肚の中でそれを処理しているのです。肚のできている人と、できていない人はそこがちがいます。

『怒るべき時には怒り 哀しむべき時には哀しむ』

先述の『中庸』の一文には次の言葉が続きます。
「発して皆節に中る、之を和と謂う」
ここに出てくる「中」の字は「あたる」と読み、よいところと時に当たることで、
的中及び時中することを意味します。

 内に統一され、何もないと思っていたものが、外からの刺激に応じて表に現れる。
その時に喜ぶか、怒るか、悲しむか、楽しむか、相応しい感情を表に発することが節度に的中することであり、これを「和」といいます。
そして、怒るべき時に怒り、哀しむべき時に哀しむというように、ハッキリと外に現れるのを「既発の中」といいます。

 私は田舎の生まれですが、田舎の葬儀では故人を偲び、皆辺りも憚らずに声をあげて泣いておりました。時折都会から参列した人が平静を保っていると、「あれは都会で生活しているから、こんな哀しい時も涙ひとつ見せない」などと非難がましい囁きが漏れ聞こえてくることもありました。
 人前で泣きっ面を見せるなど教養人の為すべきことではないと思い込んでいる人があるでしょうが、やはり、人間、泣くべき時には泣くべきだと思います。そしてそれを引きずらずに気持ちの転換ができる人、そういう人を節を得た優れた人というべきでしょう。

 滅多に怒らないけれども、あの人が雷を落としたら怖いという人。
恐るべき時にはパーッと怒り、あとはカラっとしている人も節を得ているひとです。三年も前のことを思い出しては怒りの感情を燻らせているような人は節に中っているとはいえません。 
 
私は優れた禅師のもとで修業をしたことがありますが、小僧が粗相をした時など、廊下から蹴落とし烈火の如く怒鳴りつけるのを見たことがあります。ところがこちらに向き直ると、もう平静に戻っているのです。小僧を一流に育て上げるため、誤りを犯した時にはすぐその場で厳しく教え諭さなければならない。たとえ人前であろうと、その機を逃せば本人のためにならない。禅師はそのことを徹底して実践していたのでした。

 未発の中と既発の中を自在に操ることのできる、本当に優れた人物を目指してまいりたいものです。

喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂い
発して皆節に中る、之を和と謂う