もう真夏日を何日も記録(2015/6/1)

5月に「暑中お見舞い申し上げます」?!

 暑い毎日が続いていますが、如何お過ごしでしょうか?こんな挨拶をしてもおかしくないような、今年の5月の気候と天候でした。

 私は今年の里山の竹藪(孟宗竹)の色を見て、どの山も黄色く色づき、青葉若葉の季節にそぐわない色をしているのを見るにつけ、今年の気候の異常を予測しています。
また各地の火山が地震動を含めて活発化しているのも、何か異常な自然現象の予兆ではないのかとも思います。
余り良くない予測で申し訳なくも思いますが、やはり危機に備える気構えと準備はするに越したことはなかろうと思います。備えあれば憂いなし!

 そんなことから今年は梅雨入りも遅れるのではないでしょうか?残念ながら「加茂川」ではもう加茂川大橋の上で水が切れています。田植えが本格化する時期にこの水量では・・・と思いやられます。
加茂川漁業ではアユも放流しましたが、大きく元気に育つ水量がありません。
アユの嘆きも聞こえるようで、心が痛みます。河川管理に責任の一端を議員としても感じますが、条例に縛られ思うに任せない部分に、ジレンマも感じています。

自民党愛媛県連「総務会長」に就任しました。

 さて、県議会の改選も終わり、新しい任期が始まりましたが、私は今年度の常任委員会は「総務企画国体委員会」と「議会運営委員会」に所属が、先の5月12日の臨時議会で決まりました。
また、自民党会派での活動としては、自民党愛媛県支部連合会の「総務会長」を去る5月24日の県連定期大会で選任決定されました。

 いずれにしても、県議会議員として議長も経験させていただき、5期目になりましたので、議会活動も、党活動も中核としての活動を自覚し、県民の皆様から期待され、県民の幸せにつながる施策の実行を求めて、頑張って取り組もうと覚悟を決めています。
皆様にも色々叱咤激励をいただきたいと存じます。

 6月議会は新しく選任された議員の新鮮な感覚や、それぞれ選挙を通じ県民との約束や提言などを披歴し、活発な議会になればと願っています。

新しい時代の価値基準を見極めよ

月刊『致知」2015.6月号より引用  牛尾 治朗( ウシオ電機会長 )

『変化する社会の価値基準』

 70年前の敗戦時、アメリカによって占領政策が行われたことは、戦後日本の方向性を決定づける大きなターニング・ポイントとなりました。4か国に共同管理されて東西分裂に見舞われたドイツに比べ、アメリカが日本を民主的な国家へと導いたことは不幸中の幸いでした。

具体的には、憲法改正で国民主権が定められ、個人の権利が尊重されるようになりました。また民法改正で、それまで長男しか相続できなかった親の財産が、きょうだい全員で平等に相続できるようになりました。

さらに教育改革でアメリカ式の学校制度が導入され、多数の新制大学が設立されました。駅弁大学と揶揄する向きもありましたが、これにより経済的に豊かな大卒人口が増え、消費が飛躍的に拡大したことは、日本が戦後奇跡的な高度経済成長を成し遂げた一つの大きな要因といえるでしょう。

戦前の日本では、個人は全体のためにあるという教育が施され、それが善とされていました。
それは、‟善か、悪か”が社会の価値基準になっていた時代といえます。

これがアメリカの占領政策を経て個人の権利が重視される時代に入ると、‟損か、得か”が価値基準の主流になりました。
‟善か、悪か”に比べて‟損か、得か”というと卑しい印象も受けますが、敗戦の窮状から脱出していく上では的確な基準でした。
日本はこの価値基準に基づいて高度成長を成し遂げ「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と世界から絶賛される黄金の70年代、80年代を迎えることとなったのです。

衣食住が満たされ、生活が豊かになってくると、各人が好きな暮らしをしたいという欲求が高まり、社会の価値基準は‟好きか、嫌いか”へシフトしていきました。
機能性よりも、見た目や個人の好みを重視した商品が求められるようになり、ブランド品も持てはやされるようになりました。

しかしそれが行き過ぎると、大衆の心理を悪用した偽物が出回ったり、いかがわしい人間がにわかに台頭してくるようなこともあります。
国民は次第に‟本物か、偽物か”を判断の基準とするようになったのです。

私がメンバーに加わった第二次臨時行政調査会が、「土光臨調」という通称とともに注目を集め、国の行財政改革に大きな役割を果たすことができたのは、会長の土光敏夫さんの存在が、本物志向に移行しつつあった国民の心を掴んだからだと思います。

このように、社会の価値基準が20~30年周期で変化し続けている事実を理解することは、物事に的確に処する上でとても重要なことです。

『いかなる未来を選択するか』

 現在のような‟本物か、偽物か”の時代に注意すべきことは、本物は善で、偽物は悪という極端に走ってしまうことです。

いま、憲法改正の議論が高まりつつあります。日本の憲法をよりよいものにするために議論を尽くすことに私も異議はありませんが、そこで日本ばかりを善とするエゴイズムに陥ってはなりません。

日本を分母にして善悪を考えるのではなく、アジア、そして世界全体の幸福も見据えた、ヒューマニスティックな憲法を求めて議論が発展していくことを、私は切に願っています。

いかなる価値基準に従って歩んでいくか。それによって日本の未来は大きく異なってきます。私たちは今、重要な岐路に差し掛かっていることを自覚しなければなりません。