お天道様はお見通しだ!(2015/11/1)

陰日向なく堂々と胸を張って歩こう!

 横浜で大手三井不動産が売り出したマンションで傾きがあり、調べてみると基礎杭で手抜きがあったと報じられ、その建設工事は大手ゼネコンの三井住友建設、杭打ちは大手メーカーの旭化成系列企業、それぞれ日本を代表する企業の手によって取り組まれ、消費者(居住者)はそれらの名前によるブランド力もあって、信頼しきってむしろこんなものを買ったよと、内心胸をはって住んでいただろうところに、冷や水というか熱湯をかけられたというか、衝撃は計り知れないようなことが起こっている。
 このことからこの関係業者が携わった全国の物件で、不信感解消のために調査と結果の公表が求められよう。

 地震災害などが敏感になっている今、余計に国民の不安をぬぐうことに努めなければなるまい。
ほんの些細なごまかしが、とんでもないことになってしまっている。本当に些細なことだが何ごとも基本の些細なことの積み上げで成り立っていることを、決しておろそかにしてはならないのだ。
昔から嘘やごまかしをしたって「お天道様は見てるぞ」、後で悔やむようなことは最初からしないように気を付けよ!と言われたものだ。この精神が日本の企業の信頼を築き、技術を高めてきたのではなかっただろうか?
 もう一度この陰日向なくいそしむ日本人の姿を取り戻さなければならない。

 昨年石鎚山に永年の懸案であった「環境配慮型トイレ」を標高約1900メートルに所に、愛媛県が設置し、「日本一のトイレが出来た」「冬山での避難退避所が出来助かる」と、霊山として信仰者も、多くの山を愛する登山者にも喜ばれ、維持管理費に充てようと、ワンコインの利用料を投入する箱を設けているのであるが、1年目のここにきて鍵をこじ開けてお金を盗む輩が出たようだ。さらに発電器まで盗まれたと聞いて、まさしく「罰当たりが!」と叫びたい。
まったく美しい心を育む環境の中で、その心を踏みにじる行為に憤りさえ憶える。
子供の虐待やいじめのニュースもひっきりなしに聞こえてくる。

 和の国・愛の国、日本人の心を取り戻そう!
  これから冬の寒さに向かいますが、ご自愛に程を!

至誠は息む無し

月刊『致知」2015.11月号より引用  伊與田覺( 論語普及会学監 )

『至誠の道は以て前知すべし』

 福澤諭吉は若い頃、医師であり蘭学者であった大阪の尾方洪庵のもとで蘭学を学びました。
 洪庵は諭吉の資質を非常に高く評価し、自身の主宰する適塾で塾頭に取り立てていました。ところが諭吉が腸チフスにかかった時には別の医者を寄越し、大切な愛弟子を自ら診察しようとはしませんでした。幸い病気は癒えましたが、諭吉は洪庵が自分を診てくれなかったを非常に残念に思い、冷たい人間だと思い込んでいました。
 後日、洪庵はある人に当時を述懐し、自分は諭吉を我が子のように大切に想うあまり誤った診断をしかねないので、別の医者の報告を受けて処置を伝えていたことを明かしました。これを聞いた諭吉は深く感動し、洪庵への敬愛の念を一層強くしました。そして洪庵亡き後も、遺された未亡人を我が母のごとく大切に世話をしたといいます。

 名医といえども、自分に近い人はなかなか冷静に診ることができない。人間というのは、心が乱れれば本来の力を発揮できなくなるものです。占いなども、当ててやろうと我を出したり、欲心が湧いて高い見料を取るようになると当たらなくなるので気をつけなければなりません。

 『中庸』に「至誠の道は、以て前知すべし。 国家将に興らんとすれば、必ず禎祥あり。 国家将に亡びんとすれば、必ず妖孽あり」とあります。国がこれから大いに興ろうとする時には、必ずめでたい兆しがあり、国家が亡びていこうという時には、前もって怪しい兆しがある。そういう兆しが少しでも現れた時、至誠を持っている人は、これは興るのか亡びるのかがわかってしまうということです。
 各界リーダーの指南役と謳われた安岡正篤先生は、社会的に何の地位も肩書もない方でしたが、若い時分から国のことを我が事としてずっと想い続けておられました。だからこそ国の先行きに関わる兆しを鋭敏に察知し、総理大臣をはじめ国の要職にある人に的確な助言をしてこられたのです。
 安岡先生が多くの人から慕われた所以は、その学識、見識以上に、至誠の道を貫かれたその生き方にこそあったと私は考えます。

『久しく続けることが完成の第一』

 『中庸』には、次の一説もあります。
 「故に至誠は息(や)む無し。息まざれば、即ち久しく、久しければ即ち徴(しるし)あり」「至誠」というのは天の心であり、聖人の心です。その心はもちろん本気です。思いつきではありません。
「息む無し」とは、休む時がないという意味で、本気だからこそ久しく続くということ。
するとある時、ひょこっと兆しが現れるということです。

 松下幸之助さんは、「何か大事を成そうと思うなら、一万回の祈りを捧げることや」とおっしゃっていました。一万回の祈りとは、ずっとそのことを考え続けることであり、至誠は息む無しという言葉に置き換えることができます。
そうして一貫して努力を重ねていると、あの時シンギュラー!・ポイント(特異点)に達し、事の成る兆しが現れてくるのです。
皆がすぐに賛同するようなことは往々にして誰もがやっており、大したことではないものです。人が馬鹿にしたり、眉をひそめるような大きなことや、常識を覆すような新設は、なかなか実現できるものでもありませんが、諦めずに挑戦し続けることで、遥かに遠く、広まっていくものなのです。
 
『中庸』は、「悠久は物を成す所以なり」とも説いています。物事というのは、久しく続けることが完成の第一です。いくらよいことでも、続けなければ完成はおぼつきません。そして本当の至誠というものは、限りなく続いていくものなのです。