春を呼び込め!(2016/3/1)

三寒四温を繰り返し、春が駆け足でやってくる時候となった。

 景気もアベノミクス効果で回復基調をもたらしていたのだが、ここにきてより刺激をと日銀が「0金利政策」を発表したとたんに、株価が下落の乱高下、中国の景気後退や、北朝鮮のミサイル発射の暴挙による緊迫化など、落ち着いて回復を待つ状況になくなっている。
  しかし、じっと待っていても何も起こせないだろう。しっかりと状況は見極めながらも、積極的に自らの活路を引き出す努力と行動が大事だ。

 愛媛県では中村知事が先頭に立ち、県民所得向上のために「愛媛ブランド」による信頼されるものモノづくり(1次産業・2次産業ともに)に力点を置き、これをトップセールスで売り込み、信頼度を保証して高め、中小零細事業者のバックアップを行い、実需の創出を図るべく取り組んでいる。
 2月25日から27日までの実質1日の滞在による弾丸旅程であったが、私も知事とともにマレーシア・クアラルンプールにあるツインタワー内の「伊勢丹マレーシア」での『愛媛フェア』に参加、愛媛の売り込みに務めた。
 有り難いことにここでは前マレーシア首相の「マハテイ‐ルご夫妻」も駆け付け、激励やテープカットのセレモニーにも参加いただき、愛媛ファンづくりの後押しもいただいた。
このような力強い後押しもいただく環境を作るためには、周到で果敢な攻めの戦略も必要であり、中村知事のセールスセンスは素晴らしいものがある。

 地方創生のため誰もが考えたり取り組んだりしている活動ではあるが、無駄足を踏んでいるところも多いものだが、愛媛方式は高確率で力強い取り組みと私は体感した。
人口減少を食い止めるにはまず生活基盤が立つ経済的安定が必要だ。

 平成28年度には自民党愛媛県連「幹事長」の要職を務めさせていただくことに内定した。
県政発展のため知事と車の両輪となって取り組めるよう、頑張りたい。来年は愛媛国体も開催し、愛媛をよりアピールできるものにするための仕掛けもこれから本格的に取り組まなければならない。
焦らずじっくり慎重に、だが果敢に頑張るぞ。

清規と陋規

月刊『致知」2016.3月号【巻頭の言葉】より引用  牛尾治朗(ウシオ電機会長)

『表の道徳と裏の道徳』

 社会には、清規と陋規というものがあります。
 清規は表向きの道徳を指します。人のものを盗んではいけません、喧嘩をしてはいけません、親孝行をしましょうといった訓戒はいずれも清規に属します。「教育勅語」などはその典型と言えましょう。

 これと一対を為す陋規は、裏の道徳とも言うべきものです。例えば、喧嘩もただ無軌道にやるのではなく、素手で行う、一対一で行う、自分より強いものと行うなど、一定のルールに則ってやる。同様に、泥棒にも掟があるといった暗黙の約束事も皆、陋規に含まれます。
 芝居などで有名な鼠小僧治郎吉は、貧しい家を襲わないこと、放火をしないこと、女性に乱暴しないこと、この3つの掟に則って盗みを働き、義賊として庶民の喝采を浴びました。また、任侠映画が観客を魅了するのも、陋規に満ちた世界を描いているからと言えるでしょう。
 芸能の世界ばかりでなく、武士道や職人芸、スポーツなど、一つの道を貫く世界や、地域のお祭りなどにも陋規は満ち満ちています。

 清規が大切であることは言うまでもありませんが、社会というものは、そうした建前やきれいごとばかりで成り立つものではありません。陋規の裏打ちがあることによって秩序が保たれ、温かみや、うるおいがもたらされる面もあることは、否定できない現実なのです。

『日本の強さの源泉にいま一度目を向ける』

 この頃は、陋規という言葉を知らない人が大半になりました。それに伴って、常軌を逸した事件が頻発するようになりました。
 お年寄りを騙してお金をせしめる振り込み詐欺のようなことは、昔は起こり得ないことでした。つい先だっても、数人の男が一人の少年を追い詰めて殺害するという痛ましい事件が報道されていましたが、社会全体が超えてはいけない一線を越えてしまっているように思えてなりません。
 こうした恥も外聞もないことが横行するようになったのは、陋規を育んできた地域の繋がりが薄れ、尊い伝統が失われつつあることも深く関係しているように思われます。

 ビジネスの世界でも、良い会社には良い陋規が残っています。業績が傾いても経費の無駄を徹底的に排除し、社員の雇用はできるだけ守っていくなど、独特の伝統が長らく日本企業の強さの源泉になっていました。
 近年は、こうした日本独特の伝統が改革の妨げになると考えられ、どんどん失われていますが、それに伴い日本の強さまで損なわれていくことを私は危惧しています。
 安岡正篤先生は、清規という上層建築は修繕可能だが、陋規という土台が崩れてしまってはもうどうにもならないと警鐘を鳴らしています。
きれいごとばかりが罷り通り、それを補完する陋規というものが忘れ去られることは危険なことなのです。

 今後、海外とも交流は一層盛んになり、日本の美質や強みを世界で発揮していく必要性はますます高まっていくでしょう。
 ここで陋規という言葉とともに、日本を長きにわたって支えてきたよき伝統にいま一度目を向けることの重要性を、私は実感しています。