目に青葉(2017/5/1)

目に青葉 山ホトトギス 初鰹

 時の経つのは早いもので、新年度が始まってからもう1ケ月が過ぎてしまいました。
新しい学校生活が始まり、また社会人として就職に就かれた皆さん、転勤・移動などで環境の変わった皆さん、もう新しい環境になじめて、充実した時間を過ごすことができていますか? 
最近は個性重視の教育や社会環境が尊重されてきたので、馴染んだり溶け込んだりすることが難しい面もあると言われています。ひどい例では就職して3日でやめてしまった例などもあるようです。
誰もが1人では生きてゆけないのですから、他の人と協調する心と姿勢が必要です。成長するには成果も当然問われるのですから、みんなに力を借り自分を大きくすることが大切でしょう。休日には大いに鋭気も養いましょう。

 五感を働かせよく周りを見てみましょう。もう日本を象徴する桜の花は盛を済ませましたが、新緑の息吹がまさしく目に青葉と迫ってきています。この香しい匂いにも誘われ小鳥のさえずりも悦ばしげに響いてきます。食べ物では新芽の植物も味と香りが何とも言えません、旬と言えば筍や蕨と言った里のものもありますが、古来日本近海で黒潮に乗ってやってくる「鰹」が旬のものです。瀬戸内地方では「鰆」が旬の魚であり、出世魚としても珍重されています。
このような命の息吹くような風景や季節感が、私は1年のうちに一番好きな季節です。
下ばかり見ず、閉じこもったりもせず、上を見上げておいしい空気を吸いましょう。何の味付けもいらない旬のおいしいものを近くの野山で拾って味わいましょう。

江戸っ子は 五月の鯉の 吹き流し

 国際的にも、国内的にもこのところ不安定要素が多く、北朝鮮が核開発や長距離ミサイル開発の実験も繰り返し、これに対しアメリカを含め周辺諸国も国連も通じながら、警告や制裁行動を実行しているのだが、北朝鮮の虚勢は自ら一層孤立状況となり、いつ暴発があるやもしれない状況であり、政府は全国の自治体に対しても「弾道ミサイルの発射の可能性」を国民に知らせるよう通知し、愛媛県でもホームページのトップ面に、「弾道ミサイル落下時の行動について」を掲載通知しています。
以前にJアラートの実験のような周知があったが、今回は本当の可能性に向けての広報だ。

 それでも韓国においても、わが国においても一般的に深刻な受け止めをしていない状況であるが、アメリカの空母艦隊の配備など、緊張を高めるような動きが暴発を誘うこともある。もし戦争になって北朝鮮の体制を崩壊するようなことがあっても、その後の統治について、韓国も政情が不安定な要素があるので朝鮮半島の統一構図が描けない状態だろうから、どう見ても全面戦争は無いものと思う。

 こんな緊迫感も漂う中だから、暴発しないようみんなで平和的に安定した社会を守るために、互譲の精神を前提の協力が今こそ必要だ。
自分さえよければ・・との思いがあれば平和は守り築けるものではない。
五月の空に泳ぐ鯉のぼりを見ると良い。大きな口を開けていても腹の中にたまったものを入れていないから、悠々と泳げるのだ。

古来より尊ばれている、自然から学ぶ節理を、大切に学び生かそう

 私も昨年度は、議員として政治家として誇りに思える自民党愛媛県連の「幹事長」を務めさせていただが、任期最終期を迎え、次期の議長候補の決定を巡り、自分の行動は見えずに大義の無いでっち上げの理屈で、会派を分裂させる騒動を起こされ、党で内定していた次期の議長候補を実現させることができないことになり、同志に断腸の思いをさせたことの責任を一身に受け止め、私自身の信義則に基づき、決定をいただいていた次期の幹事長再任を辞退させていただいたのであるが、今、仲間とともに一歩たりとも前進をめざして、県民・国民の負託と信託に応えられるようかたむけている努力と行動には、何の悔いもなく、かえって清新な気持ちでいられるのはありがたいことだと、あらためて感じさせていただいています。

 数や権力を利用しての無言の軋轢で、支配力を誇示しようとするような閉塞組織に、未来は開けません。
自分たちの都合のよい(自分ファースト)理屈にこだわらず、お互い曇りのない天を仰いで恥じない行動をしましょう。

しき島の大和の国は言霊の幸はふ国ぞま幸くありこそ

月刊『致知」2017.5月号【巻頭の言葉】より引用  千 玄室(茶道裏千家前家元)

『多くの言葉を集めた「万葉集」』

 最古の和歌集とされる『万葉集』は、「多くの言の葉を集めた」という意味であるといわれる。
 仁徳天皇の妃の磐姫や雄略天皇の歌から奈良時代に詠まれた約四千五百首が二十巻にまとめられており、天皇から貴族、名もない庶民とあらゆる階層の歌が選ばれた珍しい歌集というべきだ。大伴家持が最終的に整えたのものだと伝わる。額田王、柿本人麻呂、山上憶良など有名な歌人の歌も載せられている。そして珍しいことに短歌、長歌、旋頭歌といった種類に分けられている。

 私の母は短歌が好きで、千家に嫁いでからも随分歌を詠み、手紙などに毛筆でさらさらとしたためていた。確か中学生の頃の冬だった。母から「橙が庭になっているので、それを主に歌を詠みなさい」と言われ、指を折りながらやってみた。

 庭の木の 橙とりたや 鳥になり くわえて空に とびゆきにけり

 直感で詠んだものだが、この時分から空を飛びたいという心根が私にはあったのだろうか。
 後年、叙勲後七十一歳の時に宮中で歌会始に御招きを受けた。紋付羽織袴で参内。その歌を吟ずる方ののどかな節回しを伺っていると、歌の意味よりその吟ぜられる節回しが楽しくて、心の中で一緒に口ずさんでいた。皇后陛下の御製が講ぜられた時は、緊張し心が震えたことは忘れられない思い出である。

 実はその十二、三年ほど前にも歌会始に御招きを受けた。その時から、私も上手下手は別として毎年の始めに歌をと家内に持ちかけた。家内は私の顔を見てニッコリ「実は私は嫁いできてから歌をつくっていたの。お義母様が御好きだから御教えいただいた」とのこと。驚いた。「能ある鷹は爪を隠す」である。それ以来下手な歌を添削してもらったりしたのも良い思い出である。

『心のよりどころを言の葉で端的に表現』

  さて、歌や詩は「ポエム」という言葉でいい表されるが、ポエムの語源は古代ギリシア語の「ポイエーシス」で、それは「何かを表す」というような意味だと知った。
 自然的な現象や心のよりどころなどを、言の葉で端的に表現するのだ。
 万葉の歌には、込められた不思議な言の葉いわば「言霊」がある。
 柿本人麻呂がよりその言霊を意識していたようで、その作品は

 「しき島の大和の国は言霊の幸はふ国ぞま幸くありこそ」

 「言霊の八十の衢に夕占問う占正に告る妹はあひ寄らむ」

など「霊の」という「たま」が何かを動かしており、そしてその「たま」は幸わうとか幸を招くということに通じているのではあるまいか。

 万葉の歌々には、その時代のさまざまな事象が時の生活に結びついて詠まれている。
奈良時代の律令制度の確立によって国づくりができ、仏教そして神道の精神性が人々の心を動かし、その訴えを歌に託したのであろう。いわば歌とは安穏感をもたらすものであったと思われるのである。日本人が古来、大切にしてきたのが言霊である。

 先人の心に思いを馳せ、現代に生きる私たちもいま一度、言霊の幸わう国に生を受けた意義を考える時ではなかろうか。