平和国家を守り築こう!(2019/10/1)

10月22日。「即位礼正殿の儀」で、日本国の天皇として、即位を公に宣言され、これに対し国の内外から祝意をうけられる。
国民こぞってお祝いの意を表し、陛下と共に、平和国家の維持と発展を誓い合いましょう。

 日本国憲法の『第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く』と規定されていることはご承知のとおりです。私たちは何より「憲法」を大切にして、社会規範や公の秩序良俗を守り、日本国民統合の意思を築かなければならないでしょう。

 陛下は既に5月1日の譲位、則ち「平成」から「令和」への御代替わりの即位に際しても、「国民の心に寄り添い、国の平安と平和維持に役立ちたい」とのお心を示されています。西条では、昭和57年3月23日に、今上陛下が学習院の学生であった時、「伊曽乃神社」に参拝されたことや、昭和・平成の両天皇陛下からこれまで度々、御幣帛を賜るなど、皇室とのゆかりがあるので、ここを中心に、市内へちょうちん行列で、祝意と平和祈念の灯を拡げようと、私も中心になって、有志の市民で実行委員会を結成、奉祝行事を行います。

 10月は「神無月」日本全国の神社・鎮守の森で「秋祭り」が催行されると思うが、今年は特に「令和」時代の始まりです、これから明るい未来に繋がるよう、お祈りとお祝いをして盛り上げたいものです。

 さて、このところは県議会でも災害に強い愛媛づくり基金を中心に、復旧・復興、安全・安心の確保が重点施策として取り組まれていますが、最近の自然災害は局所で重大な被害をもたらすことが特徴的で、油断が出来ません。窮屈なようですが、常に自ら身を守る行動を心掛け、更には共助の支援にも力を入れ取り組む必要があるでしょう。

 こんな中にあって、心温まる話題もありました。(※事件性はないとのことです)今年1月ダンボール箱に入った札束が匿名で愛媛県庁に届けられ、お札の痛みもあったので日本銀行で鑑定を受けた結果なんと、1億661万円が入っており、愛媛県に寄付されました。県はこれを基金として「子供子育て応援基金」「災害復興支援対策基金」の目的基金として、県の財政からも積み増しなどを行い、運用することが検討されています。

 今年愛媛県で一つ残念な出来事として、松山東警察署で1月に起こった窃盗事件で、十分な裏付けの確証を取っていないのに、女子大生を誤認逮捕、この捜査の有りようや、被疑者に対する対応が、半年たっても未だに顛末が明確にされず、市民に不安と不信を抱かせていることがあります。交通事故では死亡事故アンダー50を目標として、愛媛県警頑張っていただいているのだが、肝心な治安を守る点ですっきりしないのは残念です。

 こどもにかかる問題としても、虐待やいじめ、さらには引きこもり、個食や貧困・・・などなど一向に事案が減少せず、憂慮されます。消費税の増税が始まり、教育費の無償化などこどもを取り巻く課題対策に、財源を当てられるのですが、大人の都合だけで考えず、子供を生かす・伸ばす環境づくりに取り組まれたいものです。子供は国の宝です。

 地球の温暖化などの環境を守るために、スウェーデンの16歳の少女(グレタ・トウーンベリさん)が、毎週金曜日に学校を休んで、政府の事務所前で座りこみの抗議を続けていることが反響を呼び、世界中で運動の輪が広がっている。先には国連で世界の首脳を前に何もしない、対策が進まないことを痛烈に批判したが、彼女の言葉が大人の心を痛めるだけにするのではなく、行動に移す勇気を持たなければならないことを肝に銘じるべきだろう。

聖人の言は簡、賢人の言は明

月刊『致知」2019.10月号【巻頭の言葉】より引用 
千 玄室(茶道裏千家前家元)

『「心入れ」を学べば 心身に余裕が生まれる』

 「古来、「聖人の言は簡、賢人の言は明」と言われている。簡明にして多くを教える表現をするから誰しも学び易いと。

 中国では『論語』 や四書五経による学びで、世の道理を知ることができた。孔子による学びの道標から宋学が価教より生まれる。そして老子、荘子の老荘思想に禅宗の教えがプラスされ、真理を更に追究した。「知る者は言わず、言う者は知らず」なる教えは厳しい人倫道徳の道を説いたものである。朱子が儒教の思想から朱子学を、そしてそれを王陽明が陽明学へと思想拡大させた。徳川時代は武家の学としてこの朱子学や「陽明学を取り入れ、筋の通った武士道の世界をつくりあげた。しかし、国の外のものを排するようになり、通商もまともにはせず、オランダと長崎の出島で交易を続けるなど、対外政策は閉鎖的であった。

 そう考えてみれば、徳川二百七十年の時代は国粋であり、徳川家存続と幕府の執政の両面の確固たる守りをしたと言える。武家社会において規範、即ち身につけるべき一番のものは当然武道であるが、武のみでは教養にならぬので文を、と奨励された。その第一が茶道である。

 一盤の茶を自らの点前で相手に差し上げ、そして己も自服する。主客同一体で、主は客に、客は主になる心を養う。人に対する最高のもてなし「心入れ」を学べば心身に余裕が生まれる。この余裕が大切なのである。後に商家の人が、商いの相手である客に対する心入れを学ぶために茶道を用いた。そして筆を執り和歌に詠む。五七五七七の三十一文字に込められる心境に思いを馳せ、そして謡や舞を習う。学とともにある、こうした教養は単なる趣味ではない。

 天皇家、お上の生活の中でも茶の湯の世界は別のものとして活かされた。客を迎えるに酒のみではなく茶が饗応のものであり、当時は天皇自らの茶を賜ることは滅多にない大変なことであった。
  

『体験をしてその本意を知り、自己を鍛えていく』

 茶道など無用だと言う人もおられる。この無用が大切で有用ばかりでは世は成り立たない。無用の用、即ち役に立たないと思われるものが、実際は大きな役割を果たすのである。

 陽明学の中に「天に棄物無し」という教 教えがある。あらゆるものには、それだけの素質と機能がある。天地万物には一つとして無用な、また無意味なものはないと言われてきた。無用などと思われる方は、失礼ながら先ず己の素質能力を考え思ってほしい。

 王陽明は「事上磨錬。人は須く事上に在って磨くべし」と教える。体験をしてその本意を知り、それにより自己を鍛えていくことである。人生ではいろいろな問題に突き当たり、苦悩し何とかしなくてはと思う時が多々ある。しかし、そこで落ち込まず、事故錬磨することが救いの一つになるという。

 これも陽明学の命題に、「知行合一」というものがある。知と行は同じ人間が持つ善悪是非の判断能力で分離不可能、だから体験の事実をもって鍛えていくことだと言われる。なかなか難しいことである。とかく私どもは何でも楽なほうへと自分を持っていく傾向がある。この楽というのは、責任など持たずどっちに転んでもどうということがないという、いわゆる「棚からぼた餅」状態である。
     
 働く意欲を持つ人と持たない人がいるが、天から与えられた自分のあり方を自覚しないと、世の中は通らない。あり方という自車己責任を充分に把握することにより、眼前の壁を乗り越えていけるのだと私は思う。私自身が体験した様々な事柄の中で、飛一行機という空飛ぶ機械との出合いがある。戦争下という特異な時に壮絶極まる訓練を受け、死と常に直面し事故死などもってのほかと頑張った。そこでは、恐怖心も絶望感も嫌というほど味わった。

 しかし、これが今日までの私の支柱となっていることは確かである。

 天から与えられた自分のあり方を自覚しないと、世の中は通らない。