「難」の収束に理解と協力を!(2020/4/1)

新型コロナウイルスは、全世界へ蔓延やまず。みんなの協力と叡智で、封じ込めたい。それには1人1人の自覚と責任が第1!

 年初より中国の武漢で発生した「新型コロナウイルス」は、都市の封鎖を実施するなど強硬に封じ込め対策を講じられているのだが、感染拡大は留まらず、全世界へ波及し、発生源の中国よりも多くの感染者や死者が、アメリカ・イタリア・スペインなどで出ている。

 我が国でも「新型コロナ特別措置法」も改正可決しており、国民生活や国民経済などに甚大な影響を及ぼすと判断された場合、総理大臣は区域と期間を指定し、緊急事態を宣言することが出来る。だが、未だその強制力を発するには至っていない。

 しかし世界各国ではそれに同等の措置を実施し、不要不急の外出を禁じられ、国民もそれに応じて街頭から人影が見られない様子のニュースが見られる。我が国でも徹底しなければならない時期が来るのだろうか?そんな最悪な事態は避けたいものだが・・・。

 外出を留めると「ストレスが溜まってしまう」その気持ちもわからなくもないが、自分の都合ばかりの主張は慎もう。勝手に出歩いて感染すればどれほど社会に迷惑を及ぼすのか・・・。倍々で拡大するのだ。スポーツ選手、タレント、学生、老若男女を問わず発症している。愛媛では葬儀で集まった方々でクラスター感染も発生した。

 SNSでのデマや中傷による、風評被害にも気をつけよう。自分も守りみんなも守る、基本行動を実行しよう!過去にも例のない程の、経済的な打撃・危機も恐れる。早く収束させなければ、生活基盤まで崩壊してしまう恐れが出てくる。この経済などの支援対策も思い切って講じる必要もある。そして1日も早い医療を含めた対策の整備をはかり、終息させよう。

「2020東京オリンピック・パラリンピック」来年の夏(7月23日~8月8日まで)開催延期方針が出され、一安心だが。

 こんな中、日本としては最大の関心事である「2020東京オリンピック・パラリンピック」の開催についてであるが、いよいよ世界的平和と友好の祭典として実施が「カウントダウン」され、先にギリシャで聖火の採火式も行われた。

 またその聖火が日本に届き、「復興五輪」として、福島県からスタートし、国内聖火リレーが始まる直前になったが、IOC(国際オリンピック委員会)の緊急電話での理事会で、安倍総理が要請した延期を受け入れ、3月30日に正式に2021年7月23日開幕、8月8日閉会へ開催延期が決定された。

 これまで莫大なエネルギーと予算を投じて準備をし、いよいよの段階で「新型コロナ」対策問題が世界的な問題となり、開催についての可否が心配されたのであるが、一安心ではある。

 もしゼロになるなら大変な債務が残ることになる。延期となってもかなりの負担増や犠牲問題があろうが、ゼロになるよりは少しでも取り戻せよう。経済的な欲得の問題よりも、何より「世界平和」の祭典の意義・精神の昂揚こそ大切だ。

「自民党愛媛県支部連合会」の再生に、一歩踏み出す!
愛媛県議会議長 戒能潤之介 副議長 徳永繁樹(自民党会派より)
党人事では幹事長 渡部浩 総務会長 明比昭治 政調会長 福羅浩一
幹事長代行 三宅浩正 議会対策委員長 髙山康人 が執行部でスタート

 4年前、当時私が「自民党愛媛県支部連合会」の幹事長を務めていた頃、議会改革等、今風の自分勝手な理屈をつけて「党活動」と「議会活動」は別で、議員の判断があってもよいのだとの主張で、議長選挙の前になって自民党会派として議長を内定する作業中、突然別の「会派」が結成され議長に届け出があったなどと、当時の議長(自民党で選ばれていた)の後からとってつけたような暴挙があった(自民党会派離脱の手続きもなく)。

 それまで一党一会派で最大会派として県議会最大与党として「自民党」が存在感を示し、党員や県民からも信頼を得て運営されてきたのであるが、「自民党志士の会」が結成され、いわゆる自民党県連の県議会会派が分裂、「志士の会」会派が他党などの会派との連携で議会の多数を占めることとなり、「自民党会派」は議員数では第一会派ながら議会の過半数を取れないで、議長・副議長も出せない会派となり、長らく続いてきた県政与党最大会派への党員・県民の期待を損なうこととなり、多くの県民から分裂への批判の声が寄せられていたところだった。

 こんな状態が2年余続き、昨年の参議院選挙で「自民党」公認候補が大差で敗れる結果となり、自民党の退潮の回復を!と、両会派でも反省の声も高まり、除名した議員の解除措置も政治決断するなど、自民党支持をいただける同志の拡大を狙って「大同団結」をしようとの協議の結果、第一会派の「自民党会派」から正副議長を、さる2月議会で選出、第一歩を踏み出せることとなった。

 また、県連運営の要となる役員の人事については、昨年の参議院選挙の敗北の責任も取って戒能幹事長が辞任後、幹事長代行の渡部浩さんが実質幹事長でやってられたのだが、新年度から正式に幹事長に選任され、私も5年ぶりに「総務会長」に選任され、執行部を務めることとなった。
 
 党役員については議会会派の分裂に関係なく、常任総務を務める議員はすべて各種役職に就任され、全員一丸となって党勢回復・拡大に努めることになる。党員各位や県民からの期待にしっかり応えるよう、各自議員は自覚を深め取り組むでしょう。組織の健全な維持や発展は、組織員の帰属と同志的意識が無ければ成り立たないことは当たり前です。決めたことは守るのは民主主義の基本です。

自粛要請で浮かれ気分はありませんが、桜も満開となりました。
新年度スタート、希望や夢を大切に頑張りましょう。

【訃報】

 加戸守行(前愛媛県知事)(85)さんが、3月21日ご逝去されました。民主的に開かれた「笑顔あふれる愛媛づくり」をスローガンに県政推進に務められた、故人の生前のご功績をお称えしますと共に、心からご冥福をお祈りするものです。

学は以て已むべからず青は之を藍より取りて、而も藍より青し

月刊『致知」2020.4月号【巻頭の言葉】より引用 
JFEホールディングス名誉顧問 數土文夫

『手間暇と熟練を要する藍玉づくり』

 小学生の頃、弟と自宅の土蔵で遊んでいて、棚の奥に何か貫禄のある古びた木札を見つけたことがあります。父に尋ねたところ、「藍鑑札」だと教えてくれました。藍鑑札とは、青(紺)の染料である藍玉を生産・販売する許可証で、江戸時代に各藩が発行したもの。明治以降、化学染料が藍玉に取って代わると、藍鑑札は無用になりました。

 かつては藍(タデ科の一年草)を植えつけて藍葉を採取し、その藍葉を乾燥させた後に蔵の中で寝かせ、水に湿らせながら撹拌し、約三か月発酵。それを再び乾燥させることによって蒅をつくり、さらに蒅を臼で突き固め、突き固めて藍玉が出来上がります。従って酒造り以上に大変な手間暇と熟練、地道な努力を要すると、父は話していました。

 藍は藍葉の発酵・熟成を経ないと染料にはなりません。これが他の植物性染料と異なるところであり、発酵・熟成することで元の藍より鮮やかな青(紺)になるのです。

 後年、『論語』『孟子』『史記』『韓非子』『孫氏』などと共に『荀子』を読み、「藍」について書かれていることに驚嘆しました。この章句を読むと、荀子が藍玉の製造工程を実地で見聞していたことが分かります。荀子が生きた二千四百年前の時代から現代の僅か二百年前の時代に至るまで、同じ工程で藍から青(紺)の染料がつくられていたと思うと、急に身近に感じられ、理解できるような気分になりました。

『荀子が説いた人の道』

「学は以て已むべからず 青は之を藍より取りて、而も藍より青し」
(学問というものは、永久に継続して修めなければならないものである。青色は藍という草から取ってできたものであるが、大変な努力の積み重ねを経て、それは元の藍よりもさらに青い)

 「出藍の誉れ」という故事成語は『荀子』のこの後半の一節に由来しています。弟子が師匠よりも偉くなる、出世する。もちろんそれ自体は皆が歓迎するところでしょう。しかし、この「出藍の誉れ」は後世の人が創作した言葉であり、荀子の本意ではありません。荀子が伝えたいのは、前半の一節「学は以て已むべからず」であり、他人との比較よりもあくまで自分との闘いに克つ、各人の研鑽が大事だと言っているのです。

 古代中国、春秋戦国時代の末期を生きた儒家の系統を引く荀子は、非常な合理性・科学性と実証主義的思考法を有する思想家でした。孟子が主張した性善説に反対し、性悪説を唱えたことで知られています。

 人は生まれつき私利私欲に走りがちになるもので、必ずしも「性善」ではなく、むしろ「性悪」であって、これを善に正すべく努力する。これが人の道であり、従って人間にとって重要なのは天賦の才ではない。後天的な努力や勤勉さ、善行の積み重ねであると繰り返し説いています。

『学問のすゝめ』の冒頭には、
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず(中略)されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり」
 と綴られていますが、おそらく福澤諭吉は『荀子』に影響を受けて、このような言葉を残したのではないかと思います。

 また、『荀子』の数百年後、戴聖によって編纂された『礼記』には、
「玉、琢かざれば器と成らず 人、学ばざれば道を知らず」
 とあります。玉も磨かなければ立派な器にならないように、人も学問や修養を積まなければ立派な人物となり、道を極めることはできない。これも『荀子』の教えを想起させるものでしょう。荀子は性悪説だからといって、決して善をないがしろにしているわけではありません。

『荀子』勧学篇に次の言葉があります。
「善をなさば積まざらんか いずくんぞ聞こえざるものあらん」
(善行を為すのであれば、ずっと続けるべきだ。積み上げていけば必ず世に知られていく。そして世に良い影響をもたらす)

 こういう先達の言葉を読むにつけ、人間の本質は二千年経っても全く変わらないとつくづく思います。一所懸命に努力する、真面目に誠実に生きる、苦労している人がいたら手を差し伸べる。そのような善行を積んでいくことが大事であるという倫理観を若いうちに持たなければ、すぐ誘惑に負ける私利私欲にまみれた人間になってしまうでしょう。

 近年、人生百年時代といわれるようになりましたが、戦後間もない頃まで日本人の平均寿命は約五十歳でした。その時代に比べて、我われは二倍学び、二倍善行を施す時間を持てるようになったわけです。何と素晴らしい時代でしょうか。先達の生き方を模範とし、ぜひ前向きに希望を持って、学びの道を歩み続けたいものです。

人間にとって重要なのは天賦の才ではない。後天的な努力や勤勉さ、善行の積み重ねであると荀子は繰り返し説いています。