先が見えない!?(2020/9/1)

安倍総理辞任表明!どうなる日本の政治リーダー?
早期に総理を選任し、政権の安定を目指さねば!

 安倍総理が8月28日突然に辞任を表明された。持病の「潰瘍性大腸炎」が悪化し、今、コロナ禍対策など未曾有の大事に政治的決断力が最も求められるが、政治家として最も大切な決断力・指導力の持続に、病気で自信が持てない状況だ。

 第1次安倍政権も2007年9月に、この病気で1年の政権を維持できないと辞任した経験もある。政治家の責任感として、自らの判断で今決断することが最も適切と、悔しさを隠せないが辞任を決意された。

 第2次政権が7年8か月余りとこれまでの政権で最長記録を8月23日に残されたところであったが、よっぽどつらい状況なのだろう政治家の責任・矜持としての決断を誰しも認めざるを得ないだろう。

 さて、ならば早期に次の政権を編成し、落ち込む経済の立て直しや、国民の命を守るという大義の取り組みに全力を挙げて取り組まなければならない。以下にこれから取り組まれるべき、基本的で大きな政策目標を早く打ち立て、安心と希望の持てる日本社会の、維持発展への取り組みをみんなで取り組まなければならない。いずれにせよ早急に「にっぽん丸」のかじ取り役の編成が必要だ。

 安倍政権は外交において国際的に「日本」をしっかり評価される道筋をつけてきたことは最大の貢献だ。ここに弱腰で付け入られる政権に絶対しないよう願うものだ。与党も野党もない日本の国会議員の度量と力量も問われる事態だ。そこに日本の運命がかかっているとの認識をもって取り組まれたい。

アフターコロナの道筋をしっかり見つけ、希望ある社会を築こう!
皆様もううんざりとお疲れではないですか?

 新型コロナウイルス対策に政府も地方自治体も、医療関係者も、さらには企業や国民全般も、政府の「緊急事態宣言」に応じて取り組んできた。
 
 しかし自然災害などこれまでも局部的異常事態があったが、何とかみんなで秩序を保ち、協力と連携の力が働き、これまで社会秩序が保たれてきたものだが、今回のコロナ禍は平時で見えなかった所得格差・医療格差・世代間人間間の軋轢など、社会の底部に横たわっていた、根深い厄介な問題があらわになってきている。

 これから先の収束を目指すにも厄介な状況に至っていると思えてなりません。このような状況を生んでいながら、この収束を目指して国民をしっかり導くリーダー・指導力が必要なのですが、それが見えてこない、また諸施策の実効が低迷している現状です。

 色々な専門家チームも組まれ、諸施策・対策に取り組まれているのですが、全体として統一した決定権と実行力が機能していなく、結局ともに足の引っ張り合いのようになり、本来期待する効果が上がっていないのが実態のようです。

 何より国民に解れと言っても無理もある言葉そのもので、難しく混乱している。クラスター感染・パンデミック・PCR検査・抗体検査・オーバーシュート・ソーシャルディスタンス・3蜜・テレワーク・オンライン・などなど・・・。素人の頭は混乱するばかりだ。

 また、世界中に蔓延感染し世界協調の中で取り組まなければ、ウイルスも経済も安全も収まらないのだ。この状況を国民に理解せよといっても土台無理な話であり、政治指導者が責任をもって対応方針を定め徹底し、国民の理解と協力を得なければならない。政治的行動のパフォーマンスに明け暮れせず、この国を世界を救うという大義と士道を貫く政治行動をとってほしい。

1・早急に治療薬や予防薬の開発に全力を!
 直接的にはやはり蔓延感染防止の医療的措置の徹底封じ込めを当面の問題として最重点を置いて取り組み、予防薬や治療薬の開発が急務であろう。

1・経済と国民生活安全保障
「緊急事態宣言」を発令し、国際的にも国内的にも感染拡大防止と予防のため、旅行や移動を抑え外出を抑制、濃厚接触防止のため、会議・行事も中止、外食や接待宴会などを抑制したため、失業者や経営困窮など経済活動がリーマンショック以来でそれをしのぐ状況と落ち込んでいるのだが、国民に1名10万円の給付金を支給したり、休業保障や営業資金支援など行ったものの、事態が長期に及ぶことになるので、一層手厚い支援や保護も必要だろう。打つ手が有効に機能する施策の立案と慎重な実施が強く望まれる。通信システムの活用で新しい社会構造への変革も必須の道筋だろう。

1・国際協調を果たせる安全保障体制(特に軍事・食料・医療)の整備
 今や米中の覇権争いが世界の秩序を不安定にさせている。今回のコロナ騒動は自国ファーストをより強固な手段と考える「新冷戦」時代を築いてゆくのだろう。パワーバランスが崩れることになると「同盟国」関係も由々しくなってくる。軍事的安全神話はもはや考えられない状況にあり、今回コロナのような生物兵器の力も実証されており、我が国の有事を現実問題として早急に、宇宙空間・サイバー攻撃などなど、厳しい現実を見据えて、安易な平和ボケから脱して、安全保障体制の法的整備も含め取り組まなければならない。我が国の食料自給率では国民の命が守られているとは言えない。

今年の秋祭りの「屋台運行」は残念だが我慢して自粛しよう。
皆の心に神風を起こそう!

 秋風がそよぐようになると、例年なら祭り囃子の太鼓の練習の音がどことなく聞こえ、実りの秋を祝う秋祭りが待ちどうしくなる。残念ながら今年は「だんじり・みこし」の運行は、大声を出す飛沫や三蜜の状況の中で運行されるものなので、コロナの終息が見えない中、奉納運行を認めないことにした。

 都会に出かけている人も祭りだけは帰ると毎年楽しみにしていることと思うが、今年はお盆にも帰省ができなかった方も多いと思われ、重ね重ねで残念でしょうが、みんなの命を守るためとご理解ください。

 但し、伊曽乃神社でも10月15日に行い、ご神体を神輿に載せ氏子の地域を巡行(トラックに載せてだが)、平安や疫病退散の祈りとお祓いを行うこととしている。

 コロナを心配して各種行事や会合も極めて小規模扱いとなっており、人々の心も委縮気味になっているようだが、祈りの心のつながりは絶対に失ってはならないと思う。これこそが日本人の魂のよりどころだから・・・。

 

出会い
    ~そこには共感と感動がある

月刊『致知」2020.9月号【巻頭の言葉】より引用 
アサヒビール社友 福地茂雄

『出会うことによってのみ得られる感動』

 私の書斎に、書家の幕田魁心氏が揮毫された「一期一会」の額があります。

 一期一会は茶道の心得で、目の前の客とは一生に一度しか会わないものと思い定め、心を込めて茶を点てよという戒めです。

 私は福岡県立小倉高等学校卒業の折、恩師の中村敏郎先生からこの言葉を贈られ、以来座右の銘として心に刻んできました。
「袖振り合うも多生の縁」という諺がありますが、私はこれまでの人生の中で人との出会いを大切にしてきたつもりです。

 仕事柄、結婚式に招かれる機械や媒酌人を務める機会も少なからずありますがその折の祝辞に、「お二人の出会いは悠久の時の流れの中では、また限りない宇宙の広がりの中では、偶然の中の偶然のように思われますが、お二人は出会うべくして出会ったのであり、まさに必然の出会い、一期一会の出会いなのです」と述べることにしています。

 人と人が実際に出会い、目と目を合わせながら話し合うとき、共感や感動が生まれます。「目は口ほどに物を言う」という諺は、出会いの中でのみ通用する表現と言えるでしょう。直接会って相槌を打ったり、表情や動作を交わしたりすることで、人と人はより深いコミュニケーションを図ることができるのです。

 昨年四月、隅田川を見下ろすアサヒビールのゲストルームで、我が母校・長崎大学経済学部の面々とジョッキを傾けながら久方ぶりに歓談し、時間を超えて学生時代の話題で盛り上がりました。そこにはまさしく、出会うことによってのみ得られる喜びや感動がありました。

『鬼が金棒に振り回される滑稽さ』

  最近は、出会うという言葉を口にすることも、出会いの機会そのものも少なくなりました。それは、スマートフォンなどの通信機器の革命的な発達により、直接対面する必要性が少なくなったからですが、通信機器は本来、人と人とのコミュニケーションを円滑にするために開発されたものであったはずです。

 しかし、これが犯罪に悪用されたり、また厚生労働省の調査によれば多くの時間がゲームやインターネットに費やされたりするなどして、逆に人と人との出会いの機会が失われてしまっています。

 「鬼に金棒」という諺があります。金棒という通信機器をうまく使えば、人と人との出会いの機会も増え、たくさんの共感と感動が生まれてくる可能性があるにも拘らず、いまは逆に通信機器の発達が出会いの機会を奪っているのが実情ではないでしょうか。

 その昔、『君の名は』というラジオドラマがありました。放送時間になると、銭湯の女湯ががら空きになると言われたほど熱狂的な人気を集めた「すれ違い」のメロドラマです。携帯電話の普及、さらにはスマホの位置情報によって「すれ違い」という言葉すらなくなったいまの時代では、考えられないドラマといえます鬼が金棒を使いこなせず、逆に金棒に振り回される鬼の姿がそこにあります。

 『致知』でもお馴染みの教育者・森信三先生は説きます。
 「人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早過ぎず、一瞬遅すぎない時に ―」

 折からの新型コロナウイルスの蔓延により、出会いの機会はますます少なくなっています。こういう時期だからこそ一度立ち止まり、出会いの尊さについて改めて考えてみようではありませんか。一期一会の言葉を心に刻んで。

 こういう時期だからこそ一度立ち止まり、出会いの尊さについて改めて考えてみようではありませんか。