時は流れる(2024.12.1)

今年も色々ありましたが、もう師走となりました。
落ち着いて足元を見つめ直して光明を見出しましょう。

 2024年は元日早々に「能登半島地震」に見舞われ、石川県の輪島市や各地で甚大な被害と死者を出し、未だ避難所生活を続けられている皆さんもあり、更には9月に豪雨に見舞われ1月の被災に追い打ちをかけるような被害が発生しました。被災された皆さんの「心が折れる」と言われる状況が続いており、本当に支援の在り方や、復興手立ての在り方がもどかしく感じてなりません。

 他にも全国各地で豪雨災害があり、我が愛媛県でも松山の城山で斜面土砂の崩落があり、家族3名がなくなることもありました。未だ防止復旧に至っていません。4月17日の豊予海峡地震は南海トラフ地震に連動が危惧される状況でした。

 このように地球温暖化による海水温度の上昇は、色々な自然災害を引き起こし、想定外の災害被害をこれからも引き起こすことでしょう。
自然災害とは言え、人間が引き起こす原因を作った人災かもしれません。無策無防備にしてはなりません。自分の命にかかわる問題として、正しく自分事として捉え、連帯して一歩から解決の方途を取り組みましょう。決して人のせいにして責任逃れをしてはなりません。SDGsの運動連帯に取り組みましょう。愛媛では「防災士」が全国一(約25000人)の資格登録者数となりました。

最近のインターネット(SNS)利用は異常です。

 若者がいとも簡単に「闇バイト」など犯罪に引き込まれる事件が多発しています。他にもロマンス詐欺とか、投資の勧誘や振り込め詐欺など言葉巧みに、あの手この手の犯罪にインターネット・スマホが使われ、被害が毎日報じられています。

 今では3歳の子供がスマホを見る時代ですが、善悪の判断基準・知識能力のない状況でスマホから情報を得る危険性がまん延しています。子供たちのいじめの道具としても使われ、不登校などにもつながっています。見ず知らずの人の甘い誘いや、思いがけない話に乗らず、不審に思えば必ず誰かに相談し、警察に通報しましょう。

 最近の選挙でインターネット(SNSなど)による情報が、真偽のチェックされることなく瞬時に拡散され、投票行動に大きく影響を及ぼす結果が見受けられ、これまでの社会常識の規範が壊されています。一般のマスコミ報道の在り方、公職選挙法の検討など、社会秩序の正常化への取り組みは急務で、正常な社会秩序の規範が正され、実現されることが必要です。  

この混乱によって生じる犠牲は、善良な民に及ぶばかりです。

 大きな犠牲を生んだ、先の大戦から来年は80年を迎えますが、平和と繁栄の道を守る責任を私たち主権者が一丸となって考え、協力の行動が求められます。まずは自分を!家族を!隣人を!「命がけ」で守りましょう。

混迷の社会状況の中にあって光明を見出すのは政治の責任です。

 私は、その使命感を政治がしっかりと受け止め、民意の反映がなされてこそ健全な社会づくりとの信念をもってこれからも頑張り取り組みます。

 先の総選挙で自民党・公明党の連立政権与党が、衆議院での過半数を割り込み、石破総理の政権運営は混迷が予測されます。野党は次の来年夏の参議院選挙でも政権党の過半数を割り込ませ、政権交代をもくろみ、国政は混迷が続きそうですが、国権の最高機関の「良識の府」の御旗を国民・有権者の良識で守りましょう。自由と民主主義の世界のリーダーであるアメリカ合衆国でトランプ政権が復帰、世界秩序にも大きく影響を与え、混迷も予測されています。

 西条市においても「玉井敏久」市長(2期)から、「高橋敏明」市長へと先の選挙で交代となりました。先行きが厳しい地方の課題に取り組むには、何より市民の理解と協力が必要です。そのためには市民の声との意思疎通に最大の意を用いた市政運営を切に望みます。

過去を生かすも殺すも 今、ここの生き方にかかる

月刊『致知」2024.12月号【巻頭の言葉】より引用 
愛知専門尼僧堂堂頭 青山俊董

~ 天地いっぱいの 命をいただいている ~

「光陰は百代の過客なり」と詠じた中国・唐代の李白の一句をうけてか、芭蕉が『奥の細道』の冒頭に、「月日は百代の過客にして、行き交う年も又旅人なり」と書いていることは、あらためていうまでもない。

 区切りのない時の流れに、如月、弥生などと、十二か月に名をつけ、師走、正月と一年の区切りをつけ、時と共にうつろいゆく命の凝視へと導いてくれた古人の深慮を思う。

 大雄山最乗寺の山主であられた余語翠老師から頂いた半折の一つに、円相を描き、その下に「無始無終圓同大虚」無始無終圓なること大虚に同じしというのがある。この一句から沢山の学びがあるが、まずは「無始無終」の一句に参じてみよう。書いた円相には始めも終わりもあるが、円そのものには始めも終わりもない。始めも終わりもないということは永遠の命ということ。永遠の仏の命、天地いっぱいの命を、今私はこの姿でいただき、命のいとなみをさせていただいているのだ、ということを、まずはこの一句から学んでおきたい。

~ 常に終着点であると同時に出発点 ~

 次に無始無終の円は、換言すればどの一点をおさえても、そこが終着点であると同時に出発点であるということ。陶芸家・河井寛次郎さんの言葉に、「過去が咲いている 今 未来の蕾でいっぱいな今」とある。

「四十になったら自分の顔に責任を持て」といったのはリンカーンであったか。四十歳になろうとなるまいと、二十歳は二十歳、三十歳は三十歳、 還暦は還暦、それまでの年月を、一日二十四時間、一年三百六十五日の刻々を、どう生きてきたかが、目に見えないノミとなって人格を刻みつづけていることを忘れてはならない。 それが姿や言葉にあらわれるのである。余語老師と私の若き日の背丈は全く同じであったようであるが、はるかに大きく見えた。人格 の深さ、大きさといえよう。

 同時に「出発点の今」もうれしい。 過去がいかがあろうが、つねに「出発点」に立つ思い。四十七歳の若さで癌のために人生の幕をおろさねばならなかった鈴木章子さんの言葉に「人生、やりなおしはできないが、見直し、出なおすことはできる」というのがある。

~ 前後裁断して 今ここに全力をつくす ~

 次に考えておきたいことは、「過去が咲いている今 未来の蕾でいっぱいな今」の、「今・ここ」をどう生きるか、である。過去、現在、未来と三世通貫の命を生きるわれわれではあるが、その前後を裁断して、時は今、処は足もとという姿勢で生きることの大切さを思うことである。

 幽霊に三つの特徴があるという。オドロ髪をうしろへ長くひいている。 両手を前へ出している。 足がない。 この三つを云うと いうのである。オドロ髪をうしろへ長くひいているというのは、済んでしまってどうにもならないことを、いつまでもひきずり続けることを意味する。反省するのとひきずるというのとは違う。「両手が前へ出ている」というのは来るか来ないかわからない未来を、「ああなったらどうしよう、こうなったらどうしよう」と、とりこし苦労していることを意味する。

「足がない」というのは、生きているということは「今、ここ」でしかないのに、心が過去へ未来へととんで、肝心な今ここをとりにしている姿をいうのである。
仏教の深層心理学ともいうべき『唯識』に「執が障を招く」ということが説かれている。こだわりが禍を招くというのである。「失敗が人間を駄目にするのではなく、失敗にこだわる心が人間を駄目にする。むしろ失敗を跳躍台として、ストレートにゆくよりもっと力強く立ち上がろう」と、私は語りかけることにしている。

失敗が人間を駄目にするのではなく、失敗にこだわる心が人間を駄目にする。むしろ失敗を跳躍台として、ストレートにゆくよりもっと力強く立ち上がろう