防災見直し!(2024.9.1)

残暑お見舞い申し上げます。
9月とは言え、真夏日(30度超え)が続くようだ。
南海トラフ地震の発生への警戒・注意の臨時情報の発令は解かれたが、備えよ!常に!!あなたのためにですよ!

 9月1日は防災の日。沸騰化と言われる地球環境で、海水温の上昇はやがて雨を降らせ、しかも集中豪雨となって世界各地でも大きな被害を発生させています。国内でも線状降水帯とやらで、集中豪雨の被害を発生させています。世界各地でも洪水被害が報じられているところです。

 北朝鮮でも洪水被害が発生し外国の支援も断り国内で対策を処理されているようですが、よっぽど見せられない惨状があるのではないでしょうか?
人の命の尊さはどこの誰でも皆同じで、助け合い救いの手を受け入れ、平和な暮らしを守りたいものです。SDGsの精神を世界中での取り組みに一層力を入れて啓蒙の必要性を痛感します。

平成の大合併から20年。地方の消滅をいかに止めるか?大きな課題が続く!

 さて、昭和には戦争という厳しい出来事があり、その敗戦から復興のため国民一丸となって生活基盤を整えるために頑張り、世界第2の経済大国となる成長を遂げました。

 21世紀を迎える前に経済バブルがはじけ、社会の構造変化がもとめられ、少子化や高齢化への大きな課題への対応が迫られました。大都市への一極集中から地方の活力を育み地方の自立を目指すため、効率化が求められ「地方自治体の大合併」が進められました。

 愛媛県では全国で4番目の推進県となり、70の市町村が今日12市8町の20の自治体となっています。年号も昭和から平成さらに令和と変遷しましたが、今年はその合併から20年目を迎え、各地で首長選挙が行われます。

 少子化対策・高齢社会対策(一人住まいの孤立化対策)などで、生じている社会問題への取り組みが何より大切です。これを実現するのは政治的リーダシップも大切ですが、何より住民自らが主体者として、関わりあうことが必要です。みんなが評論家となって揚げ足をとり、引っ張り合うことが最も解決への道を閉ざすことになります。

 首長選挙も、議員選挙も、「有権者」であり「主権者」であることをしっかり自覚して行動しましょう。西条市長選挙は11月10日にあります。西条市議会議員選挙は来年2月にあります。9月~10月には、国会では自民党も立憲民主党も代表選出の日程があるようです。

 今回の代表選出の候補者は、これまでにもない多数の候補者が出そうです。この総裁(代表)選びはこれまでの派閥を基礎として候補者を立てるような党とは全く異なり、選考基準や候補者の経験や能力が一般の党員にはわかりにくく、混乱しそうです。

 私はやはり同時にアメリカの大統領選挙があるので、世界の中での日本のあるべき道を、アメリカと共同で世界秩序を保つための共同歩調も重要なので、「アメリカ大統領」が民主党・共和党の誰が選ばれるのかによって、日本の総理を選ぶ基準にしたいと思います。 

実りを蓄える秋にしましょう。

心の持ち方一つで 今ここを彼岸に

月刊『致知」2024.9月号【巻頭の言葉】より引用 
愛知専門尼僧堂堂頭 青山俊董

~ 天地総力をあげての お働きをいただいて ~

 春秋二度、彼岸がやってくる。太陽が真西に沈み、西方極楽浄土の方向がわかるからだと伝えられている。西方阿弥陀如来とか、西方寺とか、浄土宗には西という字がよく使われている。

 柳宗悦氏は「往く所、向ふ所、西ならざるはない」と云い、更に「浄土は『ここ』の『いま』に在るのである。現下にして即今なるもの以外に、浄土の出現はない」と云い切っておられる。

 『摩訶般若波羅蜜多心経』の「心経」以外は全部梵語であるが、この中の「波羅蜜多」は「到彼岸」と訳されている。余語翠巌老師は「彼岸到」と過去完了形で訳され、白隠禅師は「者裏」と訳しておられる。 「到彼岸」は「彼岸に到る」と未来形に訳するのが普通であろう。余語老師の「彼岸到」は、彼岸のほうが(阿弥陀如来の本願が)向こうからやってきた。要するに天地いっぱいのお働きを、自覚するしないにかかわらず、すべてのものがはじめからちょうだいして、それぞれの生命のいとなみをしているというのである。白隠禅師の「者裏」は、「今、ここだよ。ウロウロ、キョロキョするな」と説破される。

 同じく『般若心経』の最後の咒「ギャーティギャーティ」をマックス・ミューラーは「ゆけゆけり」と過去完了の形で訳し、高田好胤僧正は「ゆこうゆこう」と未来形で訳しておられる。

 南北朝時代に出た大智禅師の「仏成道」と題する偈のはじめに「果満三祇道始成」の一句がある。普通には「果は三紙に満ち道始めて成ず」と読む。 お釈迦さまが永い永い御修行の末に道を成ぜられた、というのである。

 永平寺の元貫首の秦慧玉禅師と余語老師は「道始めより成ず」と過去完了形で読まれている。 天地いっぱいのお働きを、 はじめからいただいているのだ、というのである。

 私は両方とも大切だと思う。気づく気づかないにかかわらず、 天地総力をあげてのお働きをはじめからいただいて、それぞれの生命のいとなみをしていることにおいては変わりない。

 妙好人・因幡の源左が「はいの返事もあなたから」といっているように、眠りこけている間も呼吸ができ、全身が働いて生かしてくださっている。過去完了形である。そういう大変な生命であることに気づいたら、それにふさわしい生き方をしないではおれなくなる。自我のわがままな生き方はできなくなる。

~ 同じ一つのことを  どういただき、取り組むか ~

 ところが、そういう命の尊さを説く師や教えに出逢わないばかりに、自分の生命も他人の生命も軽んじてしまう。今日世界中が限りない争いを繰り返し、多くの人の生命が粗末に扱われているのは悲しいきわみである。

 天地総力をあげてのお働きをはじめからいただいて(過去完了形) 日々のいとなみをしていることに、よき師よき教えに出逢うことで気づかせていただき(未来形)、それにふさわしい、今ここの(裏) 生き方をしようではないか、とちょうだいしたい。

 ときは今ところ足もとそのことに
      打ちこむいのち永遠のみいのち

椎尾弁匡僧正のお歌の軸を、ときどき掛ける。今ここをどう生きるかで、彼岸にするか此岸にするか、お浄土にするか穢土にするか。彼岸、 此岸は地理の問題ではない。同じ一つのことを、どういただき、取り組むかで、彼岸にもなれば此岸にもなる。

 四国の仏教詩人・坂村真民先生の詩に、

病いがまた一つの世界を
     ひらいてくれた 桃咲く

 というのがある。この詩を作られたのがたまたま桃の花の季節であったかもしれないが、病む度に真民先生の心の花が開いたといただきたい。そういただくことができたとき、痛みつつもお浄土に、彼岸に安ろていることになる。

 一方、白隠禅師の言葉に「三合五勺の病に、八石五斗の気の病」というのがある。病気そのものは三合五勺、心が八石五斗も病んでしまって、地獄の底をはいずりまわることになる。

 よき師、よき教えに出逢うことにより、いついかなるときも、

天地総力をあげてのお働きをいただき、生きている生命にふさわしい、今、ここの生き方をしたいと、切念ずることである。