謹賀新年(2011/1/1)

 皆様には清々しい新年を、ご家族お揃いでお迎えの事と存じます。
一昨年の政権交代の純粋な期待を、裏切られ苦々しい思いをもっているのは私一人ではないと思います。だが、せめて正月です「一年の計は元旦にあり」人に我が行く道を求めず、自分らしい生き方で社会に役に立てる事を「立志」しようでは有りませんか。

 私は、今年4月末で県会議員として、3期目の任期を迎えることになります。
このような景気も財政も厳しい中で、営々と踏ん張って支えている国民の心を踏みにじり、選挙に有利になるかどうかの浅はかな感情(勘定)と、くだらない親分選びに明け暮れるこの国の政治状況に、政治に携わる一員として誠に恥ずかしく、且つ、国民の皆様に申し訳ない思いがいっぱいです。

 特に若い人にはこの国での将来設計も出来ない不安いっぱいの事と、申し訳がありません。嘆きや憂いがあっても、私の力ではとてもこれをひっくり返す力はありません。
もう責任を取って止めようかとも思いましたが、ここで逃げ出すのも無責任な話かな?と、勇気を持って1人でも鐘や太鼓を打ち鳴らし、この閉塞感からの脱皮を図る活力を政治の責任で見つけ出してゆくように頑張ろうと、決意を致しました。

 引き続きのご支援と、ご指導ご鞭撻をどうかよろしくお願いします。

 昨年の末に、愛媛県知事に「中村時広」さんが、当選し就任した。
早速12月定例県議会の一般質問で知事と、当面の、更には将来指針への所信を議論させて頂いた。お互いに知恵を出し合って
『西条の水も自然も守り、人と産業を育てる』諸施策に取り組みたい。
 水の問題については、先の私の質問に対し、「松山分水と西条地区工業用水道事業の経営問題とは別問題だ」と中村知事も認識され、今度は県知事として各地域の発展を基本とし、先に設置された水の4者協議会も公正・中立な立場で調整役を務めると表明された。
松山市民や市長・議会でよく検討され、一方的申し入れをして、対立を引き起こしたり、煽ったりしないよう臨まれる事を期待したい。

 西条市は特定して対象とされているから非常に迷惑しているが、西条市ももちろんただ反対を感情的に主張することなく、西条の実情や将来取り組みを示される必要があろう。県はこれらの討議資料など公表してみんなが納得と理解が出来る方途へ導くべきだろう。

 私もこの混乱から逃げずに、むしろ向ってゆく使命感に燃えてきた。
それが責任ある皆様への恩返しだろう。

 

当下一念
      =一瞬、一瞬をよき形で終えることができれば、次の一瞬がよき始まりになる。

-月刊誌「致知」の《巻頭の言葉》より抜粋引用=論語普及会学監 伊與田 覺-

『我が身を修めることこそがすべての根本』

 わが国において、学者にして聖人と呼ばれる人は、日本陽明学の始祖として名高い中江藤樹(とうじゅ)をもって始めとすると言われます。
その偉大な中江藤樹先生が11歳のときに読んで感動し、立派な人間になろうと志を立てるきっかけになったのが、当欄でもご紹介している中国古典『大学』の次の一節です。

 「天子自り以って庶人に至るまで、壹に是れ皆身を修むるを以て本と為す」

 天子から庶民に至るまで、自分の身を修めることこそが根本である。自分を修めるという根本を疎かにして、家庭も国家も治めることはできないのです。
重責を担う者が、その立場にあるまじき行動をしておきながら、地位に恋々としていつまでもしがみついていることがよくあります。しかし、自分の事も修められない指導者に決してまともな組織運営はできず、その地位は長くは保てないものです。これは政治家、実業家をはじめ、他のあらゆる立場の人にもいえることです。

 かつて明治天皇は、初めて東京帝国大学をご視察された時、国家の柱石となる人物を養成する最高学府に、自分を修めるための学科、修身科がないことをご危惧され、後に教育勅語を発せられました。その末尾には、「朕爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」とあります。天皇も国民も目指すところは一つであり、徳の道を歩んでいくことを希う。教育勅語には『大学』の精神が息づいていたのです。

 戦後施行された教育基本法方により教育勅語は否定され、今は存在すら知らない人が大半だと思います。ぜひ一度その尊い内容に触れていただきたいと思います。

『一瞬一瞬が終わりという自覚で生きる。』

 『大学』には、「物に本末あり、事に終始あり。先後する所を知れば、則ち道に近し」という一節もあります。
 物には必ず本と末があり、事には必ず終始がある。なにを先にし、何を後にするかをわきまえ、実行すれば、人の道を踏み外すことはないと説かれています。
 本末についてはすでに当欄で記しましたが、木でいえば、根が本であり、枝葉が末。
人間でいえば、徳性が本で、知能、技能は末であり、人間を創る上ではまず徳性を涵養し、身を修めることが大事ということです。

 加えて事の終始をわきまえるということ。
 時間はもともと無始無終で、どこから始まり、どこで終わるかは分かりません。詩化しその時間にも始めと終わりがあります。一瞬をとってみれば、そこが終わりであり、同時に始まりでもあります。
 親鸞聖人に、
「あすありと思ふ心の徒桜夜半に嵐の吹かぬものかは」
という歌があります。
 先というのは分からないもので、夕べまで元気だった人が交通事故に遭い、今朝はもういないということもあり得ます。私自身、若い頃に応召してある部隊に所属しましたが、そこから他のそこから他の部隊に転属した直後に、もといた部隊が艦載機の集中攻撃を受け、一夜にして全滅したという体験があります。
 ですから人間は、一瞬、一瞬が終わりという自覚を持って真剣に生きることが大切です。一瞬、一瞬をよき形で終えることができれば、次の一瞬がよき始まりになるのです。

 冒頭触れた中江藤樹先生も「当下一念」という言葉を残しています。
毎年正月になると心が清らかになり、よしやるぞ、と新たな決意が芽生えてきます。その清純な心を続けていくことが大切です。中江藤樹先生はまさに、11歳の時の決意を一生貫き、当下一念を実行した人といえます。

 以前、間近に控えたある人から相談を受けたことがあります。会社を辞めた後に何をしたらよいか分からず、お先真っ暗だというのです。私はその人に、今の仕事を最後まで一生懸命やれば、必ず次の世界も開けてくるから、あまり先のことを思い煩わないようにと助言しました。

 定年ともなれば、どうせもうすぐ辞めるのだからと気持ちも緩みがちですが、素に人は私の話を最後まで聞いて一所懸命仕事に精を出しました。周りはその感化を受け、職場の気風は一変したそうです。

 自分のいまいる場で最後まで全力を尽くすことが、新しい道が開けてくる一番の大本になります。一瞬、一瞬を大切に、常に有終の美を迎えられるよう努力を重ねてゆきたいものです。
最後に中江藤樹先生の道歌を記します。

 「くやむなよありし昔は是非もなしひたすらただせ当下一念」