皇紀2676年 西暦2016年日本を見つめてみよう(2016/2/1)

2月11日は建国記念の日

 建国の日というのは世界中の殆どの国で定められ、祝日扱いとなっている。
わが国でも明治6年に神武天皇が即位した日として定められた(紀元節)が、先の大戦後昭和23年GHQの意向で廃止され、その後社会党など反対もあったが、自民党の粘り強い取り組みの結果、昭和42年に国民の祝日として復活された。世界各国では独立の日を記念日としているのが殆どで、国を挙げ国民こぞってお祝いしているのが当たり前だが、わが国では政府主催の記念行事がいまだに行われていないで、ただ祝日としているのみだ。

 国の基となる意味で最も大切にしなければならない日だと私は思うが、自分の誕生日と同じく、命(魂)の尊厳のためにも節度ある心を表すことが、より尊い自覚に繫がることだろう。
それにより自己を認め、存在の価値を示すため、他者も認め協調することが必要でこれにより平和も守ることができるのだろうと思う。

 私はこの15年間は、毎年西条の「伊曽乃神社」で奉祝祭に参加、その後「建国の日を祝う奉祝大会」に参加し、皇室のご繁栄と平和社会の実現を祈っている。皆さんもぜひご参加ください。何かが変わる心が芽生えるでしょう。

今こそ国際社会の平和社会実現のため、日本の役割を果たす時!

 今、世界の情勢を見てみると、アメリカが世界の警察官としての役割を、オバマ大統領は果たさないがゆえに、ロシア・中国が各地の国内紛争などに乗じて割り込み、より紛争が増大したり、イスラム国などのテロ集団が各地で暴動をおこし、およそ平和の維持が困難な状況を作り、何の罪もない人々が難民として流浪する事態を招いている。

 経済も株価の低迷、原油安で経済の減速で、今年はさらに先行きが混迷しそうである。
このような時世界から期待され、信頼される国として日本が果たす役割は大きいものがあるのではないだろうか、と私は思うものである。
 愛媛でも自分たちの生き残りのためにも、東南アジアなどに接点を作り、ともに発展に貢献できることができればと、知事を先頭に取り組んでいる。

 よく戦争に巻き込まれることにつながるなどと悲観論ばかりで、平和を語る人がいるが、わが国の軍事力など中国に比べれば10分の1にも満たない。戦争になって勝ち目など全くないのだ。
したがって戦争などと考える事そのものがナンセンスな事だと私は思う。
 だけど初動での抑止効果を果たすものはもっていなければ、頭ごなしの襲撃をされ国民は守れないだろう。

 そんなことより大切なのは日本社会の伝統的思想である「和」をもって尊しの精神を、他者を敬い万機公論で決定し物事を運ぶという民主的手法で、知恵と培った技術力など・・・重要な役割はいくらでもある。そんな分野で大いに日本を理解認識してもらう努力をすべきだ。激動の今こそチャンスだろうと思う。

日本人本来のよさが発揮され始めた

月刊『致知」2016.2月号【巻頭の言葉】より引用  鍵山秀三郎(日本を美しくする会相談役)

『日本人の心に灯を点す安倍首相の奮闘』

 安倍首相が、この難しい国際情勢の中で、実に見事に日本の舵取りをされています。
いまの国際関係は昔のように単純ではなく、様々な要素が複雑に絡み合っているため、たった一つのミスが致命傷ともなりかねません。にもかかわらず、それを澱みなく捌き続けている安倍首相は、戦後の首相の中では最も評価すべき方だと思います。
 
 惜しむらくは、国会の内外でその足を引っ張ろうとする反対勢力の存在です。批判は誰にでも出来ます。当事者能力のない人に限って、酷い批判をするものです。しかし、そうした批判にも丁寧に対応する安倍首相の態度は立派です。首相が、前の政権が国家に及ぼした大きなマイナスの尻拭いをしながら、なおかつこの難しい情勢と対峙されていることを認識する人が増え、もっと応援する気運が高まって然るべきだと私は思うのです。

 安倍首相の奮闘は、各地で日本人の心に灯を点していることも私は感じています。

 平成27年は大変災害の多い年でしたが、被害に遭われた方々の窮状を慮り、現地の応援に駆け付ける人がたくさんいらっしゃいました。もともと日本人に備わっていた底力が、試練に直面して発揮されたのだと思います。私たちの間にこうした素晴らしい精神がまだ失われていなかったことを実感いたしました。

『公の心を取り戻す』

 同じようなことは、教育の場でも見受けられました。私は日本を美しくする会の活動を通じて、たくさんの学校を見ておりますが、平成27年は荒れた学校を何とかしようと立ち上がる先生方が、これまで以上にたくさんいらっしゃいました。

愛知県のある定時制の学校は、家庭で食事の面倒もろくに見てもらえず、給食で空腹を満たすために学校に来るような子もおり、校内の雰囲気も大変荒んでいました。何とかこの状況を変えたいと一人の先生が立ち上がり、他の先生が無関心の中でトイレ掃除の実践を始めました。いまでは生徒が進んで手伝うまでに学校の雰囲気は一変しています。
同じ県の別の学校では、授業が全く成り立たず、すっかり自信を失っていた先生が、仲間の助けを借りながら学校のトイレ掃除を始めました。誰からも見向きされなかったのですが、10回目に至ってほかの先生が自主的に参加するようになり、クラスの授業も面白いようにスムーズに運ぶようになったのです。

嬉しいことに、先生もすっかり明るさを取り戻し、自信を持って授業に臨まれるようになりました。日本の教育界に、そうした心がある先生が次々と現れていることを、私はとても喜ばしく思います。

日本人はもともと、誠実で、善良な人が大半です。にもかかわらず、先般問題になった建築会社の不祥事のように、社会の各方面で不正や誤魔化しが絶えない原因を突き詰めていくと、結果主義というものが根っこにあると私は考えます。

人間の欲望は向上心のもとでもあり、一概に否定することはできません。大切なことは、その欲望をどの方向に向けていくかです。
昔の人は、「私」よりも「公」を優先しました。貧しい中でも、道普請など公共の仕事にも当たり前のように参加していました。しかし現在はすべてを行政に依存し、それに伴い私的な欲望が膨らむ一方です。社会の絆が断ち切られ、善良な人までが
悪いほうへ引きずられているように思えてなりません。

フランスの文学者、ラ・ロシュフーコーは、「人生は一大事によって変わるものではない。 日々の小さな出来事が思わしくいったか、いかないかによって決まるものだ」と説いています。
確かに、私もこれまで命に関わるような大事件に何度も遭ってきましたが、意外にもそれによって心が荒れることはありませんでした。むしろ、靴の踵を踏まれたとか、すれ違いざまにぶつかったといった、日常の些細なことで人は心を荒ませるものです。

心の荒みは人から人へ伝染し、社会を乱し、人類を崩壊にも追いやる恐ろしい力があります。一人ひとりが小さなことにも気を配って公の心を取り戻すことで、この社会から心の荒みがなくなることを願ってやみません。