豊穣と平穏を祈る(2016/10/1)

「神無月」実りの秋の豊穣と地域の平穏を祝い祈ろう

 9月も幸い我が地方では大した災害もなく平穏に過ごせた。
 全国各地で各種災害もあり、ご苦労されている皆さんがいるのに、我が地方(自分だけが助かれば)だけが平穏でとは、甚だ勝手で申し訳なくも思い、痛みを分かち合う心は持ち合わせているつもりだが、やはり無事が有り難い。
 今月は日本中の神々が出雲に集まって、この国の平安を守るための評定を頂くのだが、早く景気の回復も、平穏で平和な社会の実現も願いたいものだ。

 北朝鮮ではミサイル実験や核実験を最近頻繁に繰り返しており、世界中から制裁を強める動きが起きているのだが、逆切れの暴走がありはしないか?心配だ。
 韓国も慰安婦問題を持ち出し、いまだに反日感情を増幅させているのも気にかかる。解決済みの問題としているのに、いつまでも蒸し返し、わが国はまた基金を拠出したが、慰安婦像を撤去の約束は守らないばかりか、まだヨーロッパでも(フライブルグ)設置の動きさえあるようで、約束を守る誠実なお付き合いが出来ないような行動をとられることは正直心外な思いだ。
色々なことが付き合いの中で起きるのは、誰も否定はできないことだが、その多少のことを理解と協力で乗り越える精神こそが大切であろう。
 傍観者になる卑怯も慎まなければなるまい。

 安倍総理は世界中をまわり、日本をアピールして我が国の国益を守り発展させるための積極的行動をされている。私はこの行動を支持したい。
ただ、先の9月26日の臨時国会での所信表明演説の中で、海上保安庁・警察・自衛隊の職員や隊員のことを、本会議場でスタンディングオーベイションするような行動をとられたことは、あまり賛成できない事だった。贔屓の引き倒しみたいなことに利用されるばかりだろう。真の平和行動を心で称える姿が示されればよいのだが、逆効果だったように思えてならない。
東京都の騒動・政治活動費の不正受給問題など、いろいろ人々の機微に触れる事柄が相も変わらず、次々と報道され品格さえ疑うような事柄も多いが、素直に正直にお互い生きようではないか。

 今年の伊曽の神社秋の大祭は15(土)・16(日)で、人出も多いものと思われるが、事故のない平和運行で、盛大な祭礼を発信みんなで楽しもう。

我は生まれながらにして之を知る者に非ず

月刊『致知」2016.10月号【巻頭の言葉】より引用  論語普及会学監 伊與田 覺

『後ろ姿のよい人こそが本物』

 孔子から高く評価され、後継者と目されながらも早世した高弟の顔回(がんかい)が、生前、「之(これ)に従わんと欲すといえども、由なきのみ」と、ため息をついた場面が『論語』に出てきます。師である孔子の至った境地が、仰げば仰ぐほど高く、自分の才能のあらん限りを尽くして後に従っていこうと思っても、どうにも手立てがないというのです。

 孔子という人は、幼い頃に父親を失い、貧しい中で学の道を志します。生活のために様々な技術を身に付けたとも述べていますが、そうした苦労を通じて徳が備わったのでしょう。人は孔子に接すると、おのずからそれに近づき、教えをこいたいという思いに駆られたといいます。

 人間の魅力というのは実に不思議なもので、決して意図してつくられるものではありません。しかし、その人の心掛けによって内面が充実してくると、おのずと外ににじみ出てくるものでもあるようです。

 魅力は顔や動作にも現れますが、最も端的に現れるのが背中です。後ろというのは意識外のものです。いくらお化粧して自分を取り繕っても、背中だけは、誤魔化すわけにはいきません。後ろ姿のよい人、それこそが本物といえましょう。

 それを形に表したのが、お寺に祀られている仏像の光背(こうはい)です。後から発する光によって、ひと言も発しなくとも、そこへやってくる人に影響を及ぼします。ちなみに、菩薩(ぼさつ)というのは腕輪や指飾り、耳飾りなどでいろいろ飾り立てをして、こちらの目を引いたところで仏の道を説きます。そうしたテクニックを使わず、何も身に付けずにただじっと座っているだけで人に影響及ぼすのが如来(にょらい)です。

 人間には、何遍あっても顔も思い出せないような人がいる一方で、ことさらに言葉や動作を弄(ろう)することがなくても、その人がそこにいるだけでちゃんと周囲が立派に治まっていくような人があります。孔子という人は、そういう人間的魅力が横溢していた人であったようです。

『すべてを我が師として学んだ孔子』

 孔子がいかにしてそうした人間的魅力を涵養(かんよう)したかということについては、その言葉から窺うことができます。
 「子曰わく、賢を見ては斉(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みるなり」
 (先師が言われた。知徳兼備の優れた人を見たら、自分もそのようになりたいと思い、つまらない人を見たら、自分はどうかと内省する)

 孔子は、相手が賢人であっても、愚か者であっても、すべてを我が師として学んでいったのです。偉い先生に高い月謝を払って学ばなくても、本人さえその気になれば、すべての人が自分を導いてくれる先生になり得ることを示唆しています。
 孔子は、これと相通ずることを次のようにも述べています。
 「子曰わく、三人行えば、必ず我が師有り。其の善き者を選びって、これに従い、其の善からざる者にして之を改む」
 (先師が言われた。三人が行動をともにしたら、必ず自分の先生になるものがいるものだ。そのよい者を選んで素直に従い、悪い者を見ては、反省して自ら改める)

 作家の吉川英治さんが、「我以外皆我師(われいがいみなわがし)」を座右の銘とされていたことは有名です。家庭の事情から小学校中退という学歴しかなかった吉川さんは、あらゆるものから学んで数々の名作を生み出し、国民作家と謳われるまでの大家となりました。

 ちなみに、その吉川さんが敬服していたのが安岡正篤先生であり、安岡先生から学んだことをもご自身の作品に思い切って取り入れたようです。

 さて、孔子の言葉をもう一つご紹介しましょう。
 「子曰わく、我は生まれながらにして之を知る者に非(あら)ず。古(いにしえ)を好み、敏にして之を求めたる者なり」
 (先師が言われた。私は、生まれながらに道を知る者ではない。古聖の教えを好み、進んで道を求めた者である)

 分からないことを尋ねに行くと、たちどころに解答を与えてくれる孔子のことを、
 「あの人は特別だ。生まれながらにして特殊な頭脳を持っているのだ」と、囁く人もいました。しかし、孔子はそれを否定し、努力によって身につけた者であることを説いたのです。

 不遇の中でもひたすら己を磨き続けた孔子にならい、各々の立場で、たとえ一二歩歩でもでも、自分を高めるべく努力を重ねてまいりたいものです。