忖度は人の情け(2017/6/1)

政府の英断「国家戦略特区」で今治に獣医学部開設がやり玉に!

 先に国有地の長期借地で学校を建設しようとしていた「森友学園」に、建設工事を始めたら産業廃棄物が掘り出され、その処分の費用を差し引いて破格の代価で払下げをしようと進む中で、一連の取り組みに森友学園理事長は大阪府の認可をはじめ政治家に接触を求め、最後には安倍総理の夫人まで駆り出して、さも総理との関係も近いとか、天皇陛下も視察いただいたかの如く妄言まで、インターネットに載せるなど、特別な人脈があるがごとくチラつかせ、学校建設に入りながら補助金を得るための資料などがちゃらんぽらんで、国会で証人喚問までされながらも、みずから墓穴を掘ってあきれるようなことに、国会で大事な時間を割かれてきたのだが、その時「加計学園」との関係もあるがごとく森友学園に扱われていたのが始まりか、今度は今治で建設中の新設岡山理科大学の「獣医学部」今治校の設立や認可に、加計学園の理事長と安倍総理の親しい間柄から、強力な政治的圧力で進められたとの疑念の追及が国会で連日時間が割かれている。
 
 元文科省の次官まで務めた方が、自分が在任中に扱われた問題なのに、その時決断できる任にありながら天下り問題で辞職させられた腹いせのように、政治主導を批判しているようで、国民や国会を一層混乱に貶められる状態にある。公務員には守秘義務もあるのだ。時に職にあった人がメモのような公文書でもない話題を取り上げられると、国民は混乱するばかりだ。
ましてや社会的要請もある獣医師の要請、四国にその機関がない地方に学生や教員を呼び込めるなどの利点を生むべく、県も今治も長年要望しやっと実現の道が開けたところにとんだチャチを入れられたようで、困惑至極だ。
賄賂や供応で結論をゆがめて仕組まれたものでも何でもない、国民や地方の要望要請に応えるため、公正な判断で早く実現できる道筋を、ともに考えるため公的な判断での「忖度」は当たり前の人の道だろう。

 連日のように「北朝鮮」がミサイルを発射し、威嚇行動を取っているのに、こんな暴力行為をやめさせるような、平和を守る知恵や方法をもっと国会で時間をかけて議論されたいものだ。
6月県議会でも今治に新設される岡山理科大学「獣医学部」に対する県としての運営費助成などが検討されると思うが、正常な議論ができるよう国会での正常化を示してほしいものである。

日本のイエスとアメリカのノー

月刊『致知」2017.6月号【巻頭の言葉】より引用  牛尾 治朗(ウシオ電機会長)

『「イエス」から始まる民族  「ノー」から始まる民族』

 海外との交流が盛んになるにつれ、日本の文化と、事実上の世界標準である欧米文化との違いに直面する機会が多くなりました。
 戦後、私がビジネスで一番最初に痛感したのは、日本人が「イエス」から始まる民族であるのに対し、欧米人は「ノー」から始まる民族だということです。

 昔から異民族との戦いを繰り返してきた欧米人は、交渉においても相手に対する不信感が前提にあり、簡単には「イエス」と言わないルールと文化を育ててきたのです。
 それゆえに、日本人が相手の話に99%まで不賛成でも、共感する部分が1%でもあれば、
 「イエス、バット……」
と応じるのに対し、アメリカ人は、100%「イエス」の時だけが「イエス」であり、90%賛成でも、10%不賛成なところがあれば「ノー、バット……」と返してくるのです。 

 私が初めてアメリカで商談に臨んだ時、先方から「ノー」と言われ、気落ちして引き揚げようとすると、「ちょっと待ってください」と呼び止められました。
 わざわざ東京からやって来たのだから、もっとあなたの言い分を聞かせてほしいと言うのです。そこから突っ込んだ話し合いが始まり、商談はめでたくまとまったのでした。
 逆の体験をしたのが、留学時代に知り合ったアメリカ人でした。彼が日本の会社に部品調達に来て条件を提示すると、担当役員は「イエス、やりましょう」と快諾。喜んでいると、後日現場から「一部仕様を変更しなければ難しい」と連絡が入り、渋々譲歩する。その後も価格や納期についての変更要請が相次ぎ、結局何も決まらないまま帰国してしまいました。

 日本の担当役員の「イエス」には、百%「イエス」ではなく、三十%の「イエス」で七十%の「ノー」でも「イエス、バット……」と応じる日本人特有の心理も窺えます。しかしアメリカ人に対しては、日本人の「イエス」がいかに不確かなものであるかを印象づける結果となってしまったわけです。

『他国との文化の違い、考え方の違いを認識せよ』

  もう一つ感じるのは、沈黙についての認識の違いです。
 かつて「男は黙って○○ビール」というコマーシャルが大ヒットしました。つべこべ言わずに飲み干すのは当然旨いからであり、日本では最高の賛辞と受け止められるでしょう。

 しかしその考え方は、欧米では通用しません。具体的にどこがどう旨いのか、しっかりプレゼンテーションしなければ、相手によさを理解してもらえないのです。
 日本には、自分が高邁(こうまい)な信念や理想を持っていれば、見る人は見ていてくれるはずという考えかあります。しかし欧米社会では、その信念や構想を、どれくらい他人に理解させ、納得させたかという量で価値が決まり、黙っていたのでは認められないのです。

 幸い、安倍首相はそうした文化の違い、考え方の違いを乗り越えて、巧みに諸外国との外交を捌(さば)いています。いまは一部の限られた人ばかりではなく、誰もが国の枠を越えて行き来する時代です。一人ひとりが「謙譲」や「察し」といった日本人の伝統的美質を大切に守りつつも、海外では他国の人々との違いをしっかりと理解し、共存のために努力を重ねていくことによって、我が国もより多くの好機に恵まれることになるでしょう。