社会に活力を!(2018/9/1)
自民党総裁選挙が国の活性化に役立つ?
3年任期の自由民主党の総裁を選ぶ選挙が、今年9月20日に行われる。
嘗ては国会議員により選出が決められていたものだが、選挙の在り方も色々変遷があって、党員が直接選挙に関われるようになり、今回は国会議員の405票と、地方票も405票の810票の得票結果が同時に開票発表され、かつてのように地方票はドント方式で計数されたり、地方票を先に開票し、その後国会議員が投票し合算されるなどの方式から、公明性や公平性に向け、改善されたと思われる。
党員による選挙であり全国民の意思表示ではないとはいえ、最大の党員を擁する与党第1党の自由民主党の選挙であり、結果が日本国を代表する総理となる人を選ぶのだから、一般国民の関心も高く、公正な選挙が実施されることが当然であり、これにより国民の幅広い支持を一層得られることに繋がるのだ。
国会議員を擁する各政党も、党の代表者を選出する制度に則り、代表を選ばれているのだろうが、公党として自民党程開かれた選出をされている党は、あまり見られない。自民党の横暴とか密室政治とか言われるが、全く的外れに批判するもので、その他の政党の有りようこそ批判されて、公明性を保ってほしいものだと思う。これこそ民主主義の原点を維持する原則論と私は思っている。
さて今回の選挙への立候補は、現職の「安倍晋三」さんと、「石破茂」さんの一騎打ちの様相だが、国会議員の支持の予測でも圧倒的に現職安倍さんの実績や政策・行動力・国際適正などが評価され支持されているようである。石破さんは前回の選挙で地方票を圧倒的に獲得した実績もある。
選挙戦を通じより一層我が国のトップリーダーとしての意気込みや見識を示され、選挙によって国民が期待感や支持姿勢を示されるような活力を湧き起こさせることを期待したい。これが国や国民の活力を生み出してほしいものだ。
安倍政権が実績として政策的にも全世界を巡って国際的に日本の存在感を示す行動も、過去のどの内閣よりも評価が高く実績を上げているため、反作用としてやっかみ批判が強いし、官僚も含めて自主性・創造性が薄れていると思われる現象も負の部分として現れ、批判の対象になっているのだろう。
これらの批判も乗り越え、一層民主的政権を実現する、真の責任政党としての「自由民主党総裁」を選び、未来に向かって平和社会をつくる支持をしよう。
少子高齢化社会への対策もどうするの?
先月も書いたのだが、少子化・非婚化による人口減少の歯止めがかかっていない。年間の出生者数は100万人をもう割り込み、年3~5万人の減少で少子化が進んでいる。その上に異性と交際できない未婚者が急増し、子供を一人も持たない人口(無子人口)が増大しているのだから、家族という価値観も消えてゆき、やがては社会人としても責務の意義も薄れてしまうのではないだろうかと危惧するものだ。自分の存在、両親・家族の存在・先祖の存在・親戚の存在・・・社会の基本を問いかけることが必要ではないか!
そんなことは個人の問題と避けているから、後戻りができない状況に至っているのではないか!誰が自分を守り支えてくれることになるのだろう!
早く一人一人が将来社会に責任の持てるシステムを実行しよう!
予想外のことが起きてしまうことが実例として多くなっている。心配されることへの手当ては、怠らず事前のチェックと対策を、後で悔いないようにするための実行が大事と心得よう。
用舎行蔵と出処進退
月刊『致知」2018.9月号【巻頭の言葉】より引用
數土 文夫(JFEホールディングス特別顧問)
『出処進退の正しい判断は活発的な会話、議論、討論から』
孔子は、自らの後継者として期待を寄せていた元来に対し、次のように語りかけたことがあります。
「これを用うれば、則ち行い、これを舎つれば、則ち蔵る。ただ爾とのみこれ有るかな」
(用いられれば、自分の信念によって堂々と行い、用いられなければ、退いて静かに一人道を楽しむものは、ただ私とおまえぐらいかな)
これは、孔子が出処進退という人生の一大事について語った言葉で、用舎行蔵の成語でも知られています。
孔子は自分自身の歩みを「四十にして惑わず、五十にして天命を知り」と振り返っていますが、この言葉は孔子がその後60歳に至った頃のものと思われます。不惑、知命を果たし、円熟の極みに発せられた言葉だけに格段の重みがあり、出処進退の判断がいかに至難の業であるかが実感されます。
日本では、社長の就任会見で「図らずも社長に推されました」といった発言を時に耳にします。日本人らしい奥ゆかしさを感じさせるものの「懸命に企図してもなれなかったのに、図らずもなったとは何事か」との印象を感じられることもあります。また、孔子の言葉に照らせばいささか心許ない印象は否めません。本来であれば、受託する時から相当の覚悟があって然るべきであり、さらに言えば、最終的にどのような形で退任するかまでを想定して臨むものだからです。
出処進退の判断を過たないためには、私利私欲から離れ、今の自分の価値を客観的に見ることが大切です。そして、その眼を養う上で有効なのが、対話、議論、討論です。
古代ギリシャのソクラテスは、弟子との対話を通じて真理を追究しました。同様の試みは孔子によっても行われており、洋の東西を問わず、対話、議論、討論が真理に至る重要なプロセスであることを先人は教えてくれています。
我が国においても、適塾の緒方洪庵、松下村塾の吉田松陰、さらには札幌農学校のクラーク博士など、対話を通じて優れた人材を輩出した指導者は多数存在します。彼らに共通するのは、常に相手と同じ目線に立って、対等に語り合う姿勢を貫いたことです。
現代においても、リーダーがこうした姿勢で部下と向き合うことは、組織における対話、議論、討論を活発にして下意上達を促し、決断に不可欠な受信力、ひいては出処進退の判断力を高めることにも繋がります。
『人生百年時代こそ歴史に学べ』
我が国に数多いる先人の中でも、出処進退の見事さにおいてまず、私の頭の浮かぶのは、渋沢栄一です。幕臣から新政府の役人を経て民間へ下った足跡、そして約五百もの会社の設立に関わったにもかかわらず、それを私して財政を形成しなかった判断など、地位や私欲に固執せず、日本の近代化に尽くした姿勢は称賛に値します。
中国の春秋戦国時代に、越の王・勾践を補佐した軍師・范蠡の出処進退も見事です。宿敵である呉の夫差に敗れ、その軍門に降った勾践を支え、復讐を成就された後は、「兎が死ねば猟犬は煮て食われてしまい、飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓は仕舞われてしまう。」という言葉を残し潔く身を退きます。同僚が謀反の疑いをかけられ自害に追い込まれたのに対し、范蠡は他国で商人に転じ、巨万の富を築いて平穏な老後を送ったのです。
かつては、出処進退の決断を迫られるような重大な局面は人生に一度くらいしかありませんでした。しかし人生百年時代と言われる今後は、そうした重大な局面を二度、三度迎える可能性が高く、出処進退の判断は概ね修羅場の中で迫られるものであり、いかに爽やかに乗り切るかが勝負となります。独りよがりの判断で道を誤らないためにも、歴史を繙き、優れた先人たちがいかに人生の修羅場を乗り切ったかを学ぶことが大切です。
昨今、リーダーの言動に重みがなくなったといわれるのは、かつてのように歴史や古典を通じて先人に学ぶ習慣が失われたことも要因と言えるでしょう。その意味では、教育の現場で用舎行蔵、出処進退といった様々な人生の機微を優れた偉人を通じて学ぶ機会が提供され、高い見識を持ったリーダーが育っていくことを私は切に期待しています。
独りよがりの判断で道を誤らないためにも、歴史を繙き、優れた先人たちがいかに人生の修羅場を乗り切ったかを学ぶことが大切です。