熱夏到来?!(2025.7.1)

7月前に梅雨明け宣言あり!?熱中症にくれぐれも配意を!

 6月27日西日本・関東に梅雨明け宣言が出された。先月も気象についてこれまでの定説を覆す状況となっていることに疑念や危惧を感じると記したところだが、まったく言葉を失う戸惑いを禁じ得ない。暑いから冷房を入れて体調を管理しましょう・・・だけどそのエネルギーは逆に気温の上昇や、降雨を引き起こす気象の悪循環に繋がってゆくのです。まさしく負の連鎖を引き起こしています。冷房をするなとは言いませんが、水分補給をこまめに取り、風通しのとれるところや、直射日光の遮断など、自己の管理と事故回避の気配りをしましょう。

7月は「参議院議員」の選挙です。必ず投票に行きましょう!

 参議院議員の任期は6年ですが、248人の定数(100人が比例代表・148人が選挙区選出)の内半数が改選されます。したがって今回(7月20日投開票日)は比例代表が50人、選挙区選出が74人です。

 四国の選挙区は愛媛1名、香川1名、徳島・高知で1名、の3名を選出です。選挙区は「個人名」を投票です。愛媛県民は「うえのゆか」と書いてください。比例代表は個人名「ありむら治子」(私が愛媛県での担当です)と個人名を書いてください。(特定の支持する人がない場合は「自民党」と、党名を書いても可です。


 7月4日から7月19日まで、市役所または市の指定した投票所で「期日前投票」ができます。午前8時30分から午後8時までと時間的に都合の良いときに行って、簡単な手続きでできますので、ぜひ活用しましょう。投票は有権者の義務です。必ず投票に行きましょう。

 愛媛選挙区に自民党公認で立候補する「うえのゆか」(女性・30才・最年少1児のママ)さんは、小学校4年生の時に地方合併により、住んでいた「北条市」の名前が消え「松山市」となりました。生まれた町・育った町の名が消えることで、田舎が地方が、住民からも見放されてゆくのではないかと非常に寂しく感じ、一方では田舎を守らなければとの思いに駆られたそうです。
 
 「うえのゆか」さんは、この課題を取り組むことが政治の役割だと気づき、将来は政治家となってこの課題に取り組みたいと志し、高校や大学での学習や活動も幅広い視野で活動され、やはり「日本の民主主義社会や自由主義経済社会を守り築いているのは自民党による政権」との政治姿勢で、大学時代には茨木県で『自民党青年部を立ち上げ活動』にも取り組んでいました。

 今回の選挙に際し、自民党愛媛県連が『公募』で候補者を求めていると知り応募されました。最終審査では、4名の中から7名の選考委員全員の推挙で、今求められる最適の候補者として決定されました。本人も色々なハンデや犠牲を乗り越え、2月から県内各地区の県議や市議等「自民党」地域支部や友好団体を巡ってまずは「知名度」をと走り回ってきました。本当によく覚悟し、色々なハンデを乗り越えて「地域の為」「国の為」「明日に希望の持てる社会築くため」「役に立ちたい」の志で頑張っています。

 私も27歳で市議会議員に立候補し、努めてきましたから彼女の気持ちが良くわかります。どうかこの純真な志を応援してやってください!!世間の風潮では「自民党」に対し、政治資金問題、派閥体質問題など暗いイメージが拭い去れていません。実際は自民党自らが改革に必死で取り組んでいます。有能で志の高い人材が一杯います。どうか平和で未来にも希望の持てる安定した日本の政治状況を守り、世界からも信頼される国を守り造るため、気概と志に高い自民党の候補者を応援してください。 

7月1日から1年間「西条ライオンズクラブ」第65代会長を務めることになりました。

 1985年(昭和60年)から、入会し40年たちました。歴代で最高齢者の会長となりますが、皆さんの理解と協力をただき、設立65周年の記念すべき年に、地域への更には世界への「友愛と奉仕」精神を『笑顔』で発揮できるよう頑張りますので、このことも宜しくお願いします。

日本国の背骨をつくる

月刊『致知」2025.7月号【巻頭の言葉】より引用 
高千穂神社宮司 後藤俊彦

~ 長い歴史を保ち得てきたのか ~

 我が国は、皇紀を用いれば今年は二六八五年にあたり、大東亜戦争の終結から八十年の節目の年を迎える。我が国にも遠くは源平の合戦や近世の明治維新など国家を二分する戦いがあり、自然災害に見舞われた苦しみの時代も度々あった。しかし、そのために革命や暴動が起きて国家の存立が損なわれたことはなく、二六八五年の長い歴史を保ち得てきたことは、興亡著しい世界の国々の歴史を思えば稀有なことである。

 七百年余に及ぶ封建時代を経て近代国家へと移行する慶応三年の「王政復古の大号令」は、「諸事、神武創業の始に基づき」 とあり、「広く会議を興し万機公論に決すべし」という誓いを朝政一新の理念として維新の大業は実行された。そして西欧先進諸国に学び、我が国の歴史と文化に配慮し、 十三年の歳月をかけて大日本帝国憲法発布されたのは明治二十二年二月十一日のことである。以来、第二次世界大戦終結まで五十五年間、我が国はこの明治憲法のもとで苦難に満ちた時代を生き抜いてきたのである。

 明治時代の日本は、そこに生きた人々の群像や世界の歴史に与えた影響をみても、ひときわ輝かしい稀有な時代であった。 この激動の時代にあって、国家と国民の精神的統合の紐帯としての役割を果たされたのが明治天皇であった。

 その起源を高天原神話にまでさかのぼる天皇の地位と存在は、国家草創期の一時期を除いては、ヨーロッパや古代中国などの覇権的君主とは異なり、五穀の実りや国民の安寧を祈る祭王(プリーストキング)”としての要素が強く、外国の学問の導入はもとより、国文学や芸術の分野にも多大な影響を保持してこられた。

 奈良時代の仏教の伝来に際してその是非をめぐって国論が分かれたが、「神を尊び仏を敬う」として国論をまとめられた第二十九代欽明天皇のように、御歴代の天皇は国論や国民意識が分裂する危機に際しては、分裂を防ぎ、それを統合する精神的権威としての役割を果たしてこられた。

~ 喪失の危機に晒された 日本人の精神的核 ~

 先の大戦の終結にあたり政府と陸軍の間にはそれぞれの信念と国家の命運を懸けて激しい意見の対立が生じたが、最終的には帝国憲法下では異例とも言うべき天皇の御聖断を仰ぐことによって終戦を受け入れた。その時の昭和天皇のご心境は、
「身はいかになるともいくさとどめけり ただふれいく民をおもひて」
の御製に窺い知ることができる。

 昭和二十年九月二十七日、昭和天皇はお一人でGHQ本部を訪れて占領軍総司令官、マッカーサー元帥に面会され、「この度の戦争の責任はすべて自分にある。自分はどうなってもよいから、ただ国民が飢えに苦しむことがないようにお願いしたい」と仰せになられている。この昭和天皇のご態度にマッカーサーは驚き感動し、昭和天皇に深い敬意を抱いたという。

 このことが明らかになったのはそれから十年後の昭和三十年に外務大臣重光葵が訪米し、国連大使加瀬俊一氏と共に会見したマッカーサーが、初めてその事実をつぶさに語ったことによる。この時マッカーサーは、「私は陛下にお会いして以来、戦後日本の幸福と民主主義に最も貢献したのは天皇陛下であり、天皇陛下こそ新日本の産みの親である」と語ったそうである。

 しかし、既に戦争中の昭和十九年春頃から準備されていた占領政策は過酷なもので、その標的とされたものが皇室と神社神道であった。 神代以来の神道信仰と皇室の弱体化を図ることによって日本民族固有の精神的核(コア・パーソナリティ) を喪失せしめる狙いがあったものと思われる。

 そのために文部省(当時)は、日本国民をして二度と再び封建的価値観に逆戻りさせてはならないという理由で中学校教育での古典教育を禁止した。古典は私どもの祖先が伝えてきた詩歌や歴史、倫理道徳、文学など大切な文化遺産の宝庫であり、その最古のものが神々の物語書き残した『古事記』『日本書紀』という神話歴史書である。日本弱体化のために日本人の歴史と文化さえ抹殺しようと考えるほどに対日占領政策は冷酷・合理的で厳しいものであった。

 その代わりにアメリカが人類普遍の原理として我が国に与えたものが、近代アメリカの民主主義思想であり、現在の日本国憲法である。
『近代民主主義の終末』の著者、葦津珍彦氏は著書の中で「近代民主主義はキリスト教的な白人国家の文化条件と社会進化の一時期にのみ作用しうる政治原理で、それを永遠の理想と考え文化温床の異なる国において実行することは誤である」と述べておられるが、戦後八十年を経た現在のアメリカや欧州諸国と世界の有様を見る時、氏の予見の正しさに驚くばかりである。

 封建時代の名君として知られる上杉鷹山の「人民を敬し、人民のために仁政を行う」との政治思想は古くより日本的民主政治の文化風土が存在していたことを示している。そしてそれを可能にし、持続させてきたものこそ天皇の大御心であり、君民一体として生きてきた日本の国柄であった。

 四月二十六日、「日本人の心の背骨をつくる」題して致知出版社が一日集中講義を行ったが、その内容は〝日本国の背骨をつくる”ことにも繋がると思った。そのためには古典教育の奨励と、日本の日本人による世界と人類に貢献するための憲法改正であろうと痛感した。

そのためには古典教育の奨励と、日本の日本人による世界と人類に貢献するための憲法改正であろうと痛感した。