謹賀新年(2014/1/1)

明けまして おめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

 昨年は、20年毎の伊勢神宮の遷宮が有り、出雲大社では60年に1度となる遷宮が行われた。全てが新しくなっての年明けとなり、新しいスタートがきられることだろう。
遷宮には日本の伝統技術が滅ぶこと無きよう、伝承と発展を期すという崇高な意義と意味も持っている。
また、国民が一つになって成し遂げようとの民族の求心力も培わせる。まさしく日本人の精神と行動規範を生みだしている行事としての意味もある。
昨年の8月伊勢神宮に「お白石持ち」行事に参加、さらに年末に特別参拝をする機会を得て、この国にあらためて誇りを感じた次第だ。
また、昨年11月にブラジルの愛媛県人会設立60年記念式典への参加と県費支援留学生との交流、パラグァイ愛媛県人会との交流などのため、久しぶりに海外現地へ訪問の機会を得たのだが、この事業を通じてもこの国を見直すことが出来た。
現地では多国籍の人種の中で、日本人として如何に信頼されるかを一人一人が大切に考え、自分のためだけではなく、次世代の人のためにも、他の日本人のためにもそれが大事なんだとのポリシーを持たれていることや、あらためて個を守るためにも責任感がいかに大切かを再認識させていただけた。
 やはり自分さえよければ、その場が凌げればという軽薄なことではいけないし、単なるパフォーマンスで行うことは、それが他の人に如何に迷惑を及ぼすことになるのかということを、しっかりわきまえる日本人社会を守らなければない。

 特定秘密保護法案の成立などで、国民の知る権利が侵され、何もかもが政府の思い通りに運ばれ、右傾化・軍国化へ・・・などと、マスコミなども煽っているが、いったい誰が私たちを守り、国益や領土を守るのだろう?
私たち一人一人に命をかけて自分を守る気概と責任感が有るだろうか?幸い単一民族で、同じ教育を受け、国境が海で隔てられ、混乱がない社会が保て、緊迫感の無い平和な社会が維持できているわが国では、有難いことの反面責任感が問われないで事が足りているだけのことではなかろうか?

 平和に甘えて(乗じて)勝手なことをいうことこそ、無責任なのだ。
誇るべきこの国をしっかり守る責任と気概を、今、しっかり取り戻さなければならない。===平成26年 年頭にあたって。

 

喜びの種をまく

月刊『致知」2014.月1号よりより引用=アサヒビール名誉顧問  中條 高徳

『まなざし、笑顔、言葉は廻天の力を持つ』

 筆者が中学生の頃、菩提寺の和尚さんが『易経』の
「積善之 家 必 有余慶」の因果応報を分かりやすく、
「幸せになりたかったら他人様にどんどん喜びの種をまきなさい」
と解いた。
 ひどい貧乏で真面目な男が「和尚さん、そうしたいがお金が一文もありません」と。
これに答えて「おまえさんの了見違い(考え違い)も甚だしい。お前さんには素晴らしい笑顔があるではないか」と反論。彼は一念発起、やがて上京し、笑顔に徹して立派な商人になった。
筆者長じて学んでみれば『雑宝藏経』に
「仏解きたもうに七種施あり。財物を損せずして大果報を得ん」とあるではないか。

一、眼施(げんせ)── やさしいまなざし。
昔から「目は口ほどに物を言う」と言われてきた。
眼施一つで恋実り、そのおかげで多くの若者が幸せを掴んできた。
天下の切れ者、石破茂自民党幹事長のまなざしは異様。眼施に気づけば鬼に金棒、天下が取れる。

二、和顔悦色施(わがんえつじきせ)── 慈愛に溢れた笑顔で人に接する。
道元禅師はやさしく微笑んで赤ちゃんにかける言葉を「愛語」と称され、「慈念衆生、猶如赤子のおもいを貯えて言語するは愛語なり。(中略)怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり。面いて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくす。面わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず。愛語能く廻天の力あることを学すべきなり、ただ能を賞するのみにあらず」と説く。
 安岡正篤師もまた「斉家の箴」で五カ条を挙げ、最初に「和顔愛語を旨とし、怒罵相辱かしむるをなさず」と説く。

三、言辞施(げんじせ)── あたたかい言葉。
『致知』の二〇〇二年九月号で紹介された
「ありがとう おかあさん
ありがとう おかあさん
おかあさんが いるかぎり
ぼくは生きていくのです
脳性マヒを 生きていく
やさしさこそが 大切で
悲しさこそが 美しい
そんな 人の生き方を
教えてくれた おかあさん
おかあさん
あなたがそこに いるかぎり」
この詩にはどれほど涙を流したか分からない。脳性マヒの子供が悲しみ悩む母親に「喜びの種」をまいたのだ。
今上陛下のご指南もされた碩学・小泉信三氏が、戦死したご子息の信吉大尉へ宛てた手紙の一説を紹介しよう。
「我々両親は、君に満足し、君をわが子にすることを何よりの誇りとしている。僕は若し生まれ替わって妻を選べといわれたら、幾度でも君のお母様を選ぶ。同様に、若しもわが子を選ぶということが出来るものなら、我々二人は必ず君を選ぶ。」
それほどまでに自分を考えてくれる両親の愛情を確と受け止め、信吉大尉は前線に赴き、お国のために散っていった。

~「恕」の心を持ち、相手に奉仕する~
四、身施(しんせ)── 自分の身体を使って人のために奉仕する。
 この施篠」極めつけの実践者は靖国に眠る英霊たちであろう。
幾度英霊の御霊に参ずるも、その思いやりの人生に粛然として声無く深い感動に襲われ、自ずと合掌する。
五、心施(しんせ)── 思いやりの心を持つ。
大切な三配りの三原則
「一、目配り 二、気配り 三、心配り」を働かせて相手の身に立って考えること。即ち孔子の「恕」の心そのものである。
六、床坐施(しょうざせ)── 自分の席を譲る。
地下鉄やバスに「優先席」と書いてあるのに知らぬ顔をきめ込む若者たちが多くなったのは我が民族の劣化である。我われ年配者も定年のない役割では、その退任の機会に気をつけなければならない。つまり適切な退陣が周囲に喜びの種をまくことを忘れてはならない。
七、房舎施(ぼうしゃぜ)── 宿を貸すこと。
 昔は一宿一飯の恩義と言っていたが、宿泊施設が完備し、個人の家で厄介になることなど皆無となった。
 昨年、筆者の関係有る学生たちに体験学習として、京都の寺社に一切紹介状なしに一宿のお願いを交渉させる訓練をした。だが難行苦行であった。それだけに一宿を許されたものは「喜びの種をまく」ことの重さをしみじみと感じ取った。
 時移り、場は変われども「喜びの種をまく」は価値はいささかも衰えてはいなかった。