今年も宜しくお願いします(2017/1/1)
2017年・平成29年・皇紀2677年「謹賀新年」
新年あけましておめでとうございます。本年もどうか宜しくお願いします。
私にとりまして昨年は思いがけず「自民党愛媛県連の幹事長」という大役をいただき、苦労や厳しい体験をさせて戴くことになりました。
何より楽勝ムードのあった参議院議員選挙に、野党連合を組んだしかも元南海放送のアナウンサーで愛媛では知名度があり、しかも先に民主党で比例復活により「代議士」の経験もある対立候補が出られ、一転して大激戦となる選挙戦となり、安倍総裁も選挙戦前半と後半に2度も応援に来ていただく、厳しい戦いの『選対本部長』の大仕事を経験させていただきました。
皆様の大局を見据えた温かいご支援をいただき、お蔭様で我が党愛媛地方区「山本順三」議員は、3選を果たさせていただき、比例区でも大健闘、自公の連立政権で参議院でも安定多数の議席を得て、安倍総理の政策「アベノミクス」による、経済振興による国民生活の安定を図るための大型補正予算も組まれ、着実に施策実施が図られています。
愛媛でも社会資本整備や、産業基盤の確立で、県民の実利向上に向けての施策
の推進を図るため、市町の地方自治体や、業界団体などの声や要望を、県政や国政に反映させるための、調整連携の要としてその役務に微力ながら、仲間の力添えをいただきながら、精一杯努力を尽くさせていただいています。
みんなで「えひめ国体」、障がい者「えひめ大会」を成功させよう
今年は愛媛では60年来念願の「国民総合体育大会」並びに、障がい者のスポーツ大会「えひめ大会」が、9月30日から10月30日の間で、県内各地の競技会場で開かれます。
この開催に向けても、私は今も「愛媛県スポーツ少年団本部長」を務めさせていただき、ライフワークのスポーツ振興と、青少年の健全育成に取り組み、県体育協会の理事もさせて戴いて、この事業の直接内側からも携わっていますが、県民総参加で、将来に「やってよかった」と、心にも形にもレガシーを残したいものです。みんなで色々な容で関わり、応援をよろしくお願いします。
活力ある西条市政の創生に向けて力を合わせましょう
昨年11月20日には西条市長選挙で、新人の「玉井敏久」さんが当選され、就任されました。
多くの市民から4年前の市長選挙で青野勝さんが当選されましたが、その時の選挙公約が当選されるやいなや、翻ったことに対し、市議会で「不信任案」が提出され可決されたが、市長は「市議会を解散」との返す刀でこれに対抗の措置を取られました。そして市議会議員に市長擁護派を立て、市議会選挙後の議会で何とか「不信任案」の再議決は、欠席戦術で議決を免れたが、以後の市議会でもギクシャクした形で、関係改善を図る努力がなく閉塞感が深まり、市政の停滞感が漂っていたことに対する市民の思いが、今回の選挙となり結果となったものでしょう。
来月2月には市議会議員の選挙も行われますが、候補者も市民もみんなで明るく活力ある西条市を創ってゆく、道をせっかくですから大きく開いて前進することにつなげたいものです。
世界平和のバランスを守ろう
アメリカの大統領に「トランプ」氏が今月就任、ヨーロッパでもイギリスのEU離脱問題、各国の首脳の交代(イスラム国紛争から難民が増え右傾化が強まっている)、隣国の韓国でも大統領の弾劾騒動、北朝鮮の情勢などなど、世界情勢が、決してゆるがせにできない状況であろう。
この動きに政府もしっかり対応して貰わないと、日本の経済も、国民生活も維持できなくなることにつながるだろう。
与党の独走はいけないが、野党も目立ちたがりばかリで中身のない反対ばかりせず、国と国民を守る責任ある論争と行動をし、世界の中での立ち位置をしっかりわきまえ、国益を守る情勢を創ろうではありませんか!
今年が皆様にとりましても良き年となりますように!
菉竹猗猗たり(りょくちくいいたり)
月刊『致知」2017.1月号【巻頭の言葉】より引用 論語普及会学監 伊與田覺
『一度会えば生涯忘れられない人物』
中国の古典『大学』に、「菉竹猗猗(りょくちくいい)たり」という言葉が出てきます。
緑滴(したた)るような美しい竹が茂っているということで、それを淇(き)の川の畔に見て君子を連想した、と記されています。
これは中国の五経に数えられる『詩経』の一節を引いたものですが、その君子とは、「切するが如く、磋するが如く、琢するが如く磨するが如し」、つまり切磋琢磨の修養を積み、常に身を慎んで麗しき威儀を備えていた。このような素晴らしい君子は、一度会えば生涯忘れられないものだ、というのです。
何遍会ってもさっぱり印象に残らない人もいれば、一目見ただけで生涯忘れないような感化を与えてくれる人物もいる。平生の切磋琢磨によって、人間はそこまで人格を高めることができるのです。
孔子という人は、まさしく「菉竹猗猗(りょくちくいい)たり」という言葉を彷彿させる人物と言えましょう。不遇の中で努力を重ねるうちに、人がぱっと見た瞬間に
「あぁ、この人は高い学識を備えている」と伝わる。そういう出会いを果たすと人間というのは、「この人に学んで成長したい」と希望が湧いてくるもので、黙っていても教えを請う人が1人増え、2人増えていくのです。
日本で言えば、近江聖人と謳われた中江藤樹という人もそうでした。
藤樹はもともと武士の修行に打ち込んでいましたが、徳川の世になり、これからは武よりも文をもって身を修めることが大事だと悟り、儒学を志しました。当初は藤樹が廊下を歩いていると「孔子さんが来た」と揶揄されていましたが、そんなことなど意に介さず努力を重ねるうちに、周りの人々と品格的に大きな差がついてきました。やはりこれを勉強しなければならないと、それまで軽蔑していた藤樹の元に教えを請いに来る人が、1人増え、2人増えていったのです。
『命ある限り 歩み続ける』
中江藤樹はその後、近江で1人寂しく暮らす母親のために、28歳の時に武士を廃業して故郷へ帰りました。そして、生活のために居酒屋を始めたのですが、そこでも周囲に大きな影響を及ぼしました。
一番先に影響を及ぼしたのは馬子、いまでいうところの運転手でした。彼らは、せっかく客を取ってお金が入っても、まっすぐ家に帰らずに酒場に寄り道をして使い果たしてしまい、「一日貧乏、一日金持ち」といわれるような生活を繰り返していました。
ところが藤樹は、誰がどれだけ飲めば酔うか、一人ひとりの適量を把握し、「もう一杯」とせがまれたも決して応じなかったため、馬子たちは仕方なく懐に金を残したまま帰ってきました。娘が酒を買いにくると、父親はちゃんと働いているか否かを確認し、今日は朝から寝ているといえば、所望された量ではなく、ほんのわずかしか売りませんでした。藤樹の配慮により、喧嘩の絶えなかった馬子の家は和やかになり、馬子ばかりではなく、その妻子、やがては村全体が藤樹に感化されて平和になっていったのです。
藤樹は先生になるつもりで居酒屋を営んだわけではありませんが、若い頃から学問を通じて己を磨いたことによって、周りから「この人に学びたい」と思わせるような人格が養われていたのでしょう。
その噂は天下の大英才・熊沢蕃山の耳にも届き、藤樹のもとに入門を懇願しにやってきました。藤樹はなかなか入門を許しませんでしたが、蕃山の意思は固く、軒下に夜を明かしながら、許可をもらえるまでは動かないというので、母の取りなしによって、ようやく受け入れられたのでした。
あいにく、蕃山は家の事情でわずか半年で藤樹の元を去らなければなりませんでした。『論語』に「徳は孤ならず。必ず鄰(となり)あり」という言葉がありますが、藤樹は蕃山に宛てた手紙に、「徳あらざれども、鄰ありの楽しみあり」と綴りました。私には君を引き留めるだけの徳はないけれども、君を得たことは、誠に喜ばしい限りではあったと、自分を卑下しつつ、優れた弟子に恵まれた喜びを率直に伝えたのです。当時、40歳を前にして、こういう言葉を発した藤樹という人の偉大さが伝わってきます。
中江藤樹はそれからほどなく、41歳という若さで亡くなりますが、その短い生涯で多くの人に影響を及ぼし、日本の学者にして聖人と称される者の筆頭にあげられるまでになりました。「菉竹猗猗(りょくちくいい)たり」とは、まさにこのような人物をいうのです。
私の半分にも満たない年齢で、中江藤樹が極めて高い境地に達していたことを実感させられますが、その一方で、私は藤樹よりも長く生きとることによって、彼が得られなかった様々な体験を享受できたありがとさも感じています。年齢は問題ではありません。各々が命ある限り、1日1日、「菉竹猗猗たり」という言葉にふさわしい人物に、少しでも近づくべく、歩み続けて参りたいものです。
何遍会ってもさっぱり印象に残らない人もいれば、一目見ただけで生涯忘れないような感化を与えてくれる人物もいる。平生の切磋琢磨によって、人間はそこまで人格を高めることができるのです。